2014年04月19日

20160226ジャーナリズムとテクノロジー

インターネットとジャーナリズムの関係が、非常に面白い。

アメリカの大手新聞社の記者が、独立もしくはインターネット系メディアに移籍し、魅力的な情報を発信し、莫大なヒット数を稼ぐ事例が増えている。

日本の大手新聞社は、ジャーナリズムというよりは日本の文化プラットフォームが本質だと思う。日本中の家庭の軒先まで送り届ける宅配制度は、その権威と影響力を維持するにおいて強力な参入障壁でもあった。紙面掲載の広告収入及びそこに挟み込むチラシ収入は、宅配制度が機能していたからこそだ。

しかし、ここでもインターネットが環境を一変させつつある。今の大学生は、ほとんど新聞を読まない。そもそも公称部数そのものに大きな疑惑があることを以前文春が報じたが、いずれにしてもPCもしくはタブレットで読む人の割合が増え、その影響力は減退の一途を辿っている。

そうなってくると、勝負は“魅力的なコンテンツかどうか”になってくる。従来は、情報の胴元である政府が記者クラブという名の情報談合組織を通じてニュースをある程度コントロールできたものが、さらに自由競争になってくる。

日本は、調和社会である。話し合い社会であり、コンセンサス社会であり、談合社会でもある。それは良い面、悪い面両方あると思う。それが、調整弁としての機能を果たしてきた面は否定できない。

そこにインターネットが出現した。ネットは、瞬時に情報を発信できる。誰も妨害ができない。ウィキリークスやスノーデンの行動は、どんな政府機関も妨害できなかった。当初は情報テロという社会の反応だったが、今回スノーデン報道でガーディアンとニューヨークタイムズが米ピューリッツア賞を受賞したことで社会の見方も少し変わるだろう。

昔は、大手新聞社のデスクはスクープをいくつも潰された。それは有力な政治家からの圧力だったらり、社の上層部とターゲットとの取引だったり、様々である。それができたのは、草稿段階や青焼き、印刷段階など、情報取得から記事作成を経て消費者に届くまでにタイムラグがあったからだ。そのタイムラグが、インターネットの登場でなくなった。

これは、ジャーナリズムの個人化が進むということだ。インターネットは物流において中間問屋を廃業に追い込んだが、これは情報産業にも同じことが言える。仕入れさえできれば、誰もがインターネットを活用して販売できるのだ。変なカスタマイズや不純物を入れられる心配もない。

まずは大手メディアに入社し、良質な情報仕入れルートを手に入れ信頼関係を構築すれば、直接販売は簡単だ。しかも消費者は、生産者の顔と産地直送の方を喜ぶ。責任の所在が、はっきりしているからだ。

社会のあらゆる場面で、この“責任の所在”が求められている。今や責任の所在が明らかでない組織は、信用されなくなりつつある。それは、インターネット環境の発達によるジャーナリズムの個人化、内部リークの増加と無関係ではない。

今年の朝日新聞の東大生の入社は、ゼロ。この事実は、痛快だ。日本も、まだ捨てたもんじゃない。