2018年06月08日

20180607nozaki

 

連日ワイドショーを賑わしている、紀州(和歌山)のドン・ファンの怪死事件。そのドン・ファンこと野崎幸助氏の人生に興味が湧き、亡くなる前に『紀州のドン・ファン 美女4000人以上に30億を貢いだ男』を購入した。今、出版元の講談社には問い合わせが殺到しているらしい。

ちなみにドン・ファンとは、17世紀スペインの伝説上の放蕩児であるドン・ファン・テノーリオのことである(Wikipediaより)。そこからプレイボーイの代名詞として使われることが多い。ただ野崎氏は体格も小柄で、性格も繊細であり、ドン底から這い上がった勤勉で努力家な人間が唯一の武器であるお金の力を借りて女性をモノにしていった感があるのは否めない。ただそうはいってもそこには涙ぐましい努力と戦略、挑戦心と行動力があり、多くの日本人男性の共感を誘うのもまた事実である。ここでは残念ながら亡くなれた野崎氏の生前の魅力を感じさせる考え方やエピソードを、『紀州のドン・ファン 美女4000人以上に30億を貢いだ男』から紹介したい。

【目次】
第1章/50歳下の愛人は大金とともに去りぬ

・自分の年齢を意識しない
・見栄を張るのはくだらない
・常識より、気持ちに従う
・突然、有名人に
・「交際クラブ」とは何か
・フェアな関係
・買春か交際か
・午前3時から仕事を開始
・ラクダのシャツ&取引姿が全国に
・「1億円なんて紙屑」
・「飲む・打つ・買う」
・窃盗事件もいい勉強

第2章/「若さ」と「馬鹿さ」の日々

・和歌山の田舎に生まれて
・ガキ大将から受けた性教育
・童貞喪失は14歳
・「美女とのエッチ」を人生の目標に
・貧乏人と見下され
・田舎に戻って鉄屑拾い
・グッチ先輩の教え
・ホルモン屋のみっちゃん
・儲かる仕事とは何か

第3章/「どうも、コンドーム屋でございます」

・商売の原点
・コンドームの訪問販売
・見栄を捨てろ
・営業力を磨く
・実演販売もやります
・女の性欲は底なしの沼
・フリーセックス時代の到来
・資本家は嘘をつく
・木賃宿の生活
・とにかく褒めてまくれ
・年収がサラリーマンの3倍に
・「金を回す」とは?
・株投資の心得

第4章/高度経済成長の波に乗れ

・初めて新地
・高級クラブにハマる
・憧れの真美嬢
・惚れた女に騙される
・男女関係は「綱引き」と同じ
・次の一手
・「お前の目標は何だ?」
・貸金業者になる
・金貸しもつらいよ

第5章/よく稼ぎ、よく遊ぶ

・人生最大の大勝負
・成功の秘訣は「客選び」
・宮内庁職員もお得意様
・逃げる者は追わない
・女子大生を口説く
・銀座のクラブに魅せられて
・チャンスは転がっている
・常連と認められるには

第6章/心を読めば、ナンパも仕事も上手くいく

・夜の親善大使
・CAをナンパする方法
・特注名刺の威力
・秘密を共有する
・ナンパの定番セリフ
・消えた銀行支店長
・零細業者の意地
・金貸しに「情」は不要か

第7章/人生、山もあれば谷もあるさ

・街のティッシュ配り
・身の丈を知る
・交通事故とマルサ
・優良納税者の証
・強盗に襲われる
・神様に感謝
・助平根性で九死に一生
・至福の時間

第8章/老け込んでなんて、いられない

・弁護士には頼らない
・無駄金かどうかは価値観次第
・「ケチ山さん」の事故
・タダより嬉しいものはない?
・若さは気持ちの問題だ
・時代は変わった
・「歳相応」にはなるな
・目標に向かって本気を出す

 

はじめに

人生山あり谷ありと申しますが、私は日本海溝のようなドン底から這いあがり、なんとか生き延びてきたのです。銀のスプーンを咥えて裕福な家庭に生まれてきたわけでなく、終戦直後の貧しい時代を耐え忍んできました。その後、幸運にも高度経済成長の波に乗ることができ、お金を稼ぐコツみたいなものも自分なりに見つけました。

簡単にお金持ちになったわけではありませんし、自分が金持ちだという意識は今でも希薄です。世の中には信じられないような大金持ちがウヨウヨいることも知っていますから、私ごときが金持ちと呼ばれるのはなんとも面はゆい気すらします。

それでも、ネットなどで勝手なことを書かれるくらいなら、ここで一度、自分の人生を振り返り、本当の自分を知っていただくのもいいかもしれない。そう考え、恥多き人生を綴ったのがこの本です。

現在、私は生まれ育った和歌山県田辺市で小さな会社を経営し、酒販販売業をメインとして和歌山県南西部の名産である梅干しの販売、そして不動産業や金融業(金貸しは一昨年でやめましたが)で生計を立てています。

長年仕事を東京で行っていましたので、今でも毎週のように東京へ出張しており、暇とは無縁の生活です。一流会社員と公務員の中には、60歳を過ぎて定年になったら悠々自適の生活に憧れる方も多いようですが、私には定年はありません。毎朝3時ごろには起き出しては仕事をこなしています。

定年後の華麗なるシルバーライフを羨ましいと思ったことはありませんし、自分の仕事が辛いと思ったこともありません。それは、私には仕事をし、お金を稼ぐはっきりとした目的があるからです。

私がお金を稼ぐ理由は、なんと言っても魅力的な女性とお付き合いをしたい、その一点に尽きます。

いい車に乗りたい、いい家に住みたい、いいモノを食べたい…。人にはいろんな欲望がありますが、私の場合車や家にはほとんど関心がない代わり、美しい女性とセックスをしたいという欲望は、今も尽きることがありません。

仕事も女性とのお付き合いも、「死ぬまで現役」と心に誓っております。

過去私がお付き合いした女性は4000人を下らず、それに使ったお金は30億円くらいになるでしょう。どうやってそのお金を稼いだのか、どうやってそんな多くの女性と出会ったのか、そして、なぜ今も元気にエッチができるのか。それをこれから語っていきたいと思います。

誰もが真似したいと思うような生き方ではないかもしれませんが、一つの目標に向かって努力を続ければ夢はきっと叶うはずです。こんな私の人生が、この本を手にとってくださった皆さんにとって、少しでも参考になればこれほど嬉しいことはありません。

2016年11月 野崎幸助

 

◆第1章/常識より、気持ちに従う

性欲が際立って高いのが私の特徴なのでしょう。そして、それを公言したら恥ずかしいという気持ちもとっくの昔に捨て去りました。

「70歳ですが、どこも悪くありません」
「毎朝散歩して、体重に気を遣っています」

健康食品の宣伝には健康そうな老人たちがにこやかに笑っている写真が載っています。これはこれで微笑ましいものでして、このような健康自慢というのは大きな声で言いふらすことができます。

ところが、です。

「75歳、毎日エッチをして楽しんでいます。極楽、極楽、ワッ八ッハッ!」

なんていう性欲自慢は表立って公言できない風潮があるのは残念なことであります。しかし、考えてもみてください。高齢化社会になった現在、性欲が溢れている老人たちは数多くいるはずで、それを明るく公言できないだけなのです。

週刊誌にはシルバー世代がソープランドに通ったり、デリバリーヘルスを利用しているという記事が掲載されています。この事実を初めて知り、まるで驚いたような体裁の記事ですが、それらを書く若い記者はシルバー世代のことを理解していないのじゃないかと思いました。

シルバー世代にだって性欲が溢れている方はおられるし、逆に壮年世代で枯れてしまったと自分で決めつけている方々もおられます。

でも、誰もが往年のパワーを取り戻すことは可能です。

私はその先駆者になってタブーを打ち破ってやりたいと考えています。私の性欲が異常に強いといっても、罪を犯しているわけではありませんし、他人の迷惑になっているわけではありません。できれば「和歌山のドン・ファン」とおしゃれに呼んでほしいですけど、「助平ジジイ」と呼ばれようとも気にしません。

江戸時代後期の日本社会は性に関して開放的だったと、欧米から来日した旅行者たちが記していまして、特に銭湯が混浴なことに驚いたようです。それが明治という時代になり、性をタブー視する風潮が作られます。すると、混浴は野蛮だという理由で禁止となり、それが現在まで続いてきました。江戸時代であれば混浴が当たり前で「常識」だったのが、現代では「非常識」と批判されます。このように「常識」というのは時代によってコロコロと変わるものです。

「エッチしてますか?」

「ええ、昨晩もパンパン頑張りましたよ」

もしかすると、何十年後かこんな挨拶が日常的になるかもしれません。常識に縛られていたらストレスが溜まって体に悪いじゃないですか。

自分の気持ちに忠実に生きてきた結果が、今の自分なのです。

 

◆「交際クラブ」とは何か

私は街中でガールハント(今流ではナンパと言いますが)をすることもあれば、銀座や大阪の新地など、夜の高級クラブでホステスさんとお付き合いすることもあります。その方法については後で詳しく述べますが、この7~8年は高級クラブには滅多に足を運ばなくなり、その代わりに都内の交際クラブに登録して女性を紹介してもらっていました。

交際クラブによっても異なりますが、入会金が3万~5万円という庶民レベルから、50万円とか100万円という高級なところもあります。

私は複数の交際クラブと契約しており、安いところは安いなりのレベルの女性が登録し、高級なところにはやはりレベルの高い女性が登録しているようです。

「社長、いい娘がいますけど会ってみませんか」

贔屓にしている交際クラブは、私の好みの女性のタイプを知っておりますので、気に入りそうな娘がいれば電話で連絡が来て写真も送ってくれます。そのクラブに登録している女性の多くは、20代前半から30手前ぐらいの売れないタレントの卵とかモデルさんが多く、街を歩けば振り向くような美人も少なくありません。

紹介料は男性が一回につき5万円で、女性は入会金も含め無料。単なる小遣い銭稼ぎから、未来の旦那さんを見つけたいという方まで、女性の登録理由は様々です。

交際クラブからの紹介があり、こちらが会いたいと希望すれば、お相手の女性と実際に会うことになります。

お相手と会って食事などをし、お互いに気に入ればエッチするのは自由。紹介した交際クラブは、その後の二人の関係についてはノータッチというシステムです。

先ほども申し上げたように、私はバツ2の独身ですので、気に入った女性がいれば結婚してもいいという気持ちで、交際クラブが紹介してくれる女の子たちとお付き合いをしていたのです。

誤解のないように言っておきますが、私の好みは20代半ばぐらいの若くて大柄、グラマラスな女性で、小便臭いような若い娘にはまったく興味がありません。ですから、交際クラブに登録する段階で女性が年齢を偽ったとしても、児童買春というような法律に引っかかる心配はなし。あくまで二人の自由意思によって、エッチするかどうかが決まります。

銀座や大阪・新地のクラブのホステスさんを口説くためには、客は財布が痛むのを知りながらも本能の命じるままに何度も通わなければなりません。

私もかつてはその一人でした。しかし、高級クラブにはホステスを口説きに行っても空振りが間々あるどころか、酷いときには何度も空振り三振が続いてしまいます。

お店によっては「特攻隊」と呼ばれている、客と寝るためのホステスも用意されています。しかし、特攻隊員には食指が動かないような方が多いのも事実。だから、どうしても好みのホステスさんを口説こうと熱を入れていました。ただ、毎晩のように店に通ったとしても口説ける保証はまったくなく、金をドブに捨てるようなこともしばしばでした。

それと比較して交際クラブは大人の割り切りができるので、私にとっては非常に楽なシステムです。

飲みたくもない酒を飲んで同伴出勤をしたり、アフターに付き合ってお気に入りのホステスさんを口説いたりするのは、今では馬鹿馬鹿しいと思っています。要はエッチしたいという自分の欲望を満たしてくれればいい。そのうえで体も心も相性が合えば、結婚することもやぶさかではありません。

私としては、交渉は手っ取り早いほうがいいわけです。

 

◆午前3時から仕事を開始

私はニュース番組以外のテレビは、ほとんど見たことがありません。私の職業は前述したように酒類販売業、梅干し販売業、不動産業、そして金融業が主なものです。

多くの一流ホテルと契約して酒類を卸していますし、和歌山は南高梅と呼ばれている有名な梅の産地ですから、全国から需要があります。また、株取引にもかなり力を入れていまして、女性とエッチをする時間以外は仕事がたくさんあり、テレビをのんびりと見るヒマはないのです。

毎朝、私は遅くとも午前3時ごろには起床します。平均睡眠時間は3~4時間ほどで、あとは昼寝を少しすれば、それでなんの支障もありません。ロンドンやニューヨークの株式市場をチェックするのに適した時間なので、午前3時から5時ごろまでは欧米の株価をチェックしたり、書類をチェックする仕事に追われます。

それから20年以上も一緒に暮らしている愛犬、ダックスフントのイブちゃんと散歩に出かけます。メス犬のイブちゃんは私の唯一の家族のようなものですから、それはそれは目に入れても痛くないほど溺愛しています。出張で家を空けたときなど心配で、イブちゃんの世話をお願いしているお手伝いさんに様子を訊くため、何度も電話をしてしまうほどです。それに、散歩というのは気分転換になりますし、体にもいい。

私が健康でいられるのは、エッチとイブちゃんのお陰なのかもしれません。

散歩が終わると、会社へと出勤します。鉄筋コンクリート造り4階建ての会社は20年ほど前に建てた私のお城でありまして、通勤時間は自宅から徒歩2分ほどしかかかりません。

1階の事務所の書棚、そして2階の書棚にはこれまでお金を貸し付けた方の書類ファイルがずらりと並んでおり、その数は数万人分に及びます。

会社のビルの横には酒類販売業で使っている倉庫があり、ビールたワインなどの酒類が毎日フォークリフトで運ばれてきます。倉庫に集められた酒類はトラックの荷台に積み込まれ、和歌山県内はもちろん、三重や奈良にも配達されていくのです。

大都会で満員電車に何十分も揺られて通勤地獄を味わっている方には大変申し訳ありませんが、職場と住居は近ければ近いほど効率的だと私は思っています。

2年ほど前には貸金業には見切りをつけて事業を縮小しましたが、貸金の回収は続けていますし、不動産のほうもありますので、6人の従業員ともども忙しい毎日を過ごしています。

従業員がまだ出勤していない早朝の会社で、私はトイレや事務所の掃除をした後、書類を整理して過ごし、お昼前には仕事を終えてしまいます。

それからまっすぐに帰宅すると、少し昼寝をして、夕方からは女性と楽しむための時間です。これを毎日のように繰り返します。非常に規則正しい生活を送っていると自分では思っていますけれど、私のことを知らない仕事関係の方は面食らうようです。

「社長はもう帰宅しました。連絡は取れません」

昼過ぎに連絡をしてくる仕事相手にウチの従業員がそう応えると、誰もが驚きの声を上げると言います。

「申し訳ありませんが、ウチの社長はそのような生活ですので…」

従業員がいちいち頭を下げているのは知っておりますが、何十年とそのようなルーティンで暮らしているのですから、生活習慣を一朝一夕に変えることはできないのです。こんなところも、周囲からは変わり者と思われる要因なのでしょうが、このルーティンを変えるつもりはありません。

ですから、テレビのワイドショーというのも、ほとんど見たことがありませんでした。朝のワイドショーは仕事の真っ最中、昼のワイドショーは昼寝中のため、見る機会がなかったのです。

余談ですが、大晦日の紅白歌合戦も見たことがありません。そんな暇があったら、仕事やエッチをしているほうが断然楽しい。これが私の生き方です。

 

◆第2章/和歌山の田舎に生まれて

私は和歌山県南西部の田辺市で1941年(昭和16)4月、7人兄弟の三男坊として生まれました。

終戦直後の混乱のなか、日本中が貧しかったときに少年時代を送っています。食べるものも不足し、そのためなのか私の身長は160センチ弱しかありません。実家は酒屋を営んでいましたが、裕福とは言えず日々の食事にすら困るような状態でした。まあ、終戦直後は日本国民のほとんどが飢え死に苦しんでいたのですから、私の家が特別貧しいということではありません。

当時は娯楽というものがなく、近所のガキ大将に従って里山でチャンバラごっこをしたり、山の斜面に掘られていた防空壕なんぞで秘密基地を作ったりするのが楽しい遊びになっていました。

危ないからと大人たちは注意をしますけど、子供というのは多少危ないものに興味を惹かれるものです。肥後ナイフを使って笹などを取ってきては防空壕の入り口をカムフラージュし、改良を加えて内部にムシロを敷いたりして快適な空間を作るのが無上の楽しみでありました。

雨が降ろうが風が吹こうが寒かろうが、その空間にいれば親の小言も聞こえてこない。まるで一国一城のような空間で、主となる殿様はガキ大将が務めます。ガキ大将はせいぜい中学2年生までで、その後は新しいガキ大将にバトンタッチされていきます。

なにしろ私の世代のすぐ後には団塊の世代が続きますから、どこの家々からも赤ん坊の泣き声が聞こえているような環境で、子分がどんどん増えていくような状態でした。ですから近所で遊ぶにしても、小学校低学年のうちは味噌っかす扱いで仲間にすら入れてもらえません。仕方なく同学年どうしで、かくれんぼなどをして遊びます。そういう年代を卒業すると、やっと秘密基地などを作って遊ぶ上級生グループに加えてもらうことができます。このあたりは軍隊のシステムにやや似ています。少年兵から予備練に昇格していくような高揚感を田舎の里山で感じていたものです。

「大変です。敵が近づいてきました」

防空壕の外には前線基地も置かれていまして、その見張りを命じられていた洟垂れ小僧が真剣な顔をして報告に来ます。「敵」に見立てられたのは、畑の作業に来るオッサンです。そうやって、近づいてくる人がいれば、基地に陣取る隊長に走って報告し、指示を仰ぐわけです。

「そうか、散開して敵が近づくまで待て」

ガキ大将のマーやんが命じます。多分マーやんは中学1~2年生だったと思います。マーやんの名前が誠だったのか正則だったのか、今ではまったく記憶にありませんが、当時小学生4年生だった私には、うっすらと鼻の下に髭が生えたマーやんがまるで大人のようにぴかぴか輝いて見えました。

「わかりました。そら行くぞ」

マーやんの命令に従った隊員たちは、めいめいが枝を切って作った木製銃を大事に抱え、茂みの中で息を潜めて辺りを窺うことになるわけです。銃といっても、もちろん弾が出るわけではありません。「パンパンパン」と口で発射するだけのことです。

攻撃と防御の二手に分かれての戦争ごっこもかなり流行りました。服に緑の小枝を刺し、カムフラージュして敵陣地を急襲する果敢な作戦も行いました。松ぼっくりの手榴弾も飛び交います。

「ウーン、やられた」

銃口を目の前にして派手に倒れるのにも、なかなかの演技力が必要です。

「お前、上手いじゃないか」

マーやんにそう褒められると、天にも昇ったような気分になったものです。

 

◆貧乏人と見下され

最初に勤めた名古屋の酒造メーカーの仕事は肌に合わず、給料が安いのにこき使われて、へとへとになってやっと寮に戻ってくるような毎日でした。酒の瓶を洗ったり、重い酒のケースを運んだりする仕事でしたが、もたもたしていると容赦なく先輩からの拳骨が飛んできます。今ならブラック企業に認定されるような職場も珍しくなかった時代のことです。

朝鮮戦争の特需があって、なんとか景気は上向きになっていましたが、まだまだ庶民がそれを実感できるほど豊かではなかった時代です。このままメーカーで仕事をしていてもうだつが上がらないだろうと毎晩布団の中で考えていました。会社の寮住まいだったので好きなエッチもできず、自分で自分を慰めるしかありません。

私が働き出してすぐに赤線は廃止されましたが、青線は残っていました。私は密かに心を躍らせながら給料日の後に一人で青線に行きました。仲間たちと一緒にそのような場所に行くほど開放的でない私は、自分の心を見透かされることに恐怖を感じてしまうウブな男でありました。

小料理屋が並ぶ狭い通りには、歌舞伎の隈取りのような厚化粧をした年嵩の女性たちが並んでいます。彼女たちは値踏みをするかのような目線を送ってきただけで、声を掛けてくることもありません。私がたいして金を持っていないことを察したのでしょう。私は胸の高鳴りを抑えつつ、伏し目がちにその前を通りすぎました。

胸の高鳴りは興奮ではなく、自分への嫌悪感でした。

商売女、パンパンと呼ばれる女性たちに貧乏人と見下され、相手にされなかった自分が情けなかったのです。また、それが理由ではないでしょうが、彼女たちに対しては自分が性的興奮を覚えないことおはっきり自覚していました。

誤解を招きたくはないのですが、性を売り物にする女性を見下すつもりはありませんし、彼女たちによって幸福感を得る男性諸氏を批判しようとも思いません。ただ単に私の感性には合わないという程度のものです。

不遜と言いましょうか身の程知らずと言いましょうか、自分の気に入った素人娘を口説いてエッチをしなければ面白くないという考えに凝り固まるようになりました。しかし、そういう理想を持っていたにも関わらず、たまに口説けた女性がいても、自分の理想とする女性には遠く及ばない方ばかり。情けなさは募る一方でした。

それと言いますのも、自分は言葉巧みに口説くテクニックや、女心の機敏がわかるほどの余裕を露ほども身につけていなかったからです。

そんな自分も省みず、美人の素人お姉ちゃんとエッチしようと考えていたのですから、馬鹿げた話です。「若さ」という単語は「馬鹿さ」と一文字しか違いませんが、それはこのふたつがあまりにも似ているからだと思います。

 

◆田舎に戻って鉄屑拾い

「辞めさせていただきます」

名古屋での勤めが1年近く経ったある日、会社の事務所で上司にそう告げました。

「お前な、『石の上にも三年』って言うじゃないか。お前はまだ1年しか働いていないからもう少し辛抱しろよ」
「いろいろ考えましたが、私には向いていないことがわかりましたから」
「次の仕事のあてはあるのか?」
「いえ…」
「そんな考えだったら、どこに行っても通用しないぞ」

蔑んだような上司の視線はいまだに忘れません。しかし、このまま勤めていても将来が見えてきません。「石の上にも三年」という格言はもちろん知っていましたが、見切りをつけるなら早いほうがいいという気持ちが強く、結局辞めることにしました。

私はいったん故郷の田辺に戻って家業を手伝いながら、鉄屑拾いの仕事を始めました。

太平洋戦争でアメリカのB-29爆撃機から投下された爆弾の破片を回収したり、工場から出る鉄屑を整理したりして、それを鉄屑屋に売却するという仕事です。この仕事では誰にも雇われることなく、毎日一人で歩き回っておりました。

銅線や鉄屑は当時、高い値段で買い取ってくれましたので、鉄屑拾いは流行りの商売だったのです。上司から指図されるばかりの酒造メーカーの仕事に比べ、どこに行けば鉄屑が集まるか自分で考えて働くのですが、これが自分には向いていました。

仕事をサボれば収入がなくなります。会社の上司から命じられていた時代は嫌々やっていた仕事も、自分が動かなければ収入はゼロだと思えば必死になります。

「鉄屑はありませんか?」

自転車を転がし、工場などを回って情報を仕入れます。鉄屑を見つければリヤカーで運んで業者に持っていく毎日です。働けば働いただけ獲得する鉄屑は多くなりますから、朝から晩まで働きました。当然のことながら収入も増えましたが、自分が食べていける程度にしか儲かりません。

女性と交際するには軍資金が必要で、相手の食事代も払えず、プレゼントのひとつもあげれない男がモテるわけはありません。私はどうしたら軍資金を調達できるかと常に考えていました。

戦後10年経った1956年春の経済白書には「もはや戦後ではない」という有名なフレーズが記載されて流行語になりました。私が15歳のころです。確かにそれから高度経済成長を迎えるわけですが、街には復員者たちがマークするマーケットがそこここにあり、闇物資の取り引きが白昼堂々と行われていました。また、街を守ると称する暴力団・愚連隊が跋扈するなど、社会は混沌としており、実態とすればまだまだ戦後のどさくさは続いていたと言えます。

「もはや戦後ではない」という流行語にしても、庶民は「そんなわけないだろう」という思いで受け止めていたように思います。しかし、日本は1960年代半ば過ぎにはすっかり高度成長のレールに乗ることができました。

50年代後半に三種の神器と呼ばれていたのは白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫でした。それがなんとか広まると、60年代半ばには車、カラーテレビ、クーラーの頭文字を取った3Cと呼ばれる消費財に人気が集まりました。そして、私たち庶民が高度成長を実感できたのは70年の大阪万博開催のころだったと思います。

急成長を遂げていく世の中を横目に、私は相も変わらず鉄屑を拾い集めていました。