2018年05月07日

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人しか資源のないこの国土の狭い日本が、世界を相手になぜここまで成長できたのか。それはモノ作りを愛し、モノ作りに誇りを持ち、そして何よりも今までにないモノを作る挑戦心があったからではないのか。そんな日本の素晴らしさをもう一度見直すためには、日本を代表する経営者の本を精読する必要があると感じ、何冊かの書籍を購入した。

名経営者の本は多数出版されているが、私が好きなのは日本経済新聞の『私の履歴書』だ。本人の幼少時代から語られ、そこにはユニークなエピソードが豊富に語られている。成功する前のその経営者自身のバックボーンが、リアルに感じることができるのが魅力的だ。今回は、『世界のHONDA』を生んだ日本人の誇りである本田宗一郎について研究してみたい。

 

1.本田宗一郎の略歴
2.本田宗一郎の略年譜
3.本田宗一郎のエピソード
4.本田宗一郎の名言
5.最高の女房役だった藤沢武夫について

 

1. 本田宗一郎の略歴

本田宗一郎

1906年静岡県生まれ。22歳で独立。浜松で自動車修理工として成功するが飽き足らず、エンジンやピストンの研究を始める。戦後、本田技術研究所を創業し、自転車に小型エンジンを載せた通称「バタバタ」を発売。1948年、本田技研工業株式会社を創業し社長に就任。オートバイ「ドリーム号」「スーパーカブ号」などを次々に開発し、二輪車で世界のトップメーカーとなった。その後、四輪車に進出。低公害のCVCCエンジンの開発などを成功させ、世界的自動車メーカーを築き上げた。73年、社長を退く。1991年8月、肝不全のため84歳で死去。

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2.本田宗一郎の略年譜

1906年 11月17日、静岡県磐田郡光明村(現天竜市)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻みかの長男として出生。
1913年 光明村立山東尋常小学校に入学。在学中に、はじめて自動車を見る。アート・スミスの曲芸飛行に見学に行く。
1919年 二俣町立二俣尋常高等小学校に入学。
1922年 4月、東京本郷湯島のアート商会に自動車修理工で入る。
1928年 のれんわけのかたちで独立し、浜松にアート商会支店を設立。工場主になる。
1935年 小学校教員の磯部さちと結婚。
1936年 東京・多摩川で開催した全日本自動車レースに出場し、大怪我をする。
1939年 東海精機重工業の社長に就任。ピストンリングの製造に乗り出す。
1946年 9月24日、浜松に本田技術研究所設立。自動車用補助エンジンを開発。
1948年 浜松に本田技研工業を設立し、社長となる。資本金100万円、従業員34人。
1949年 本格的オートバイ「ドリーム号」を開発。藤澤武夫、常務で入社。
1951年 「ドリーム号」で箱根越えに成功。
1952年 自転車用補助エンジン「カブF」発売。小型エンジンの発明で藍  本社を東京に移す。渡米し、工作機械を発注。
1953年 4億5千万円の工作機械を輸入。
1954年 株式店頭公開。TTレース出場宣言。経営危機。労組結成。
1955年 二輪車生産台数が国内一に。政府が「国民車育成構想」発表。
1956年 本田、藤澤が欧州視察。
1957年 東京証券取引所に上場。
1958年 小型バイク「スーパーカブ」発売し大ヒット、規格量産と輸出の足固め完成。
1959年 TTレース初出場。米国に販売会社「アメリカン・ホンダ」を設立。
1960年 研究部門を独立させ、本田技術研究所を設立、社長兼務。
1961年 TTレースで1位から5位まで独占し、完全優勝。通産省が特振法起案。
1962年 ベルギーに生産販売会社「ホンダ・モーター」設立。スポーツカーS360(初の四輪車)開発。
    鈴鹿サーキット完成。日本経済新聞に「私の履歴書」第一部を掲載。
1963年 創立15周年祭を京都で開催。新車の価格当てクイズ。赤色ボディのスポーツカー「S500」を発売。
1964年 F1レースへ初参加。
1965年 F1メキシコGPで初優勝。
1967年 軽自動車「N360」発売し大ヒット。発売三ヶ月で首位に。小型車への進出決める。
1968年 仏GPで死亡事故。
1969年 初の小型車「H1300」を発売するが売れ行き不振。社内に「水冷・空冷論争」が起こる。
1970年 四専務による集団指導体制へ移行。第一回オールホンダアイディアコンテスト開催。欠陥車騒動で告訴される。
1971年 低公害エンジンCVCC発表。
1972年 CVCCエンジンがマスキー法75年規制値に合格。トヨタ自動車と技術供与契約。「シビック・CVCC」発売。
1973年 10月、本田技研工業社長を退任し、取締役最高顧問となる。
1977年 本田財団設立。米オハイオ州に現地生産工場を建設することを発表。
1981年 勲一等瑞宝章。
1983年 本田技研の取締役を辞任し、終身最高顧問となる。ホンダ、15年ぶりにF1に復帰。
1986年 F1で製造部門のタイトル。
1988年 藤澤武夫、心臓発作で死去。享年78歳。
1989年 本田、日本人初の「自動車殿堂」入り。
1990年 本田、国際自動車連盟(FIA)よりゴールデンメダル賞受賞。
1991年 8月5日、肝不全のため死去。享年84歳。勲一等旭日大授章。

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▲1954年、ホンダが倒産の危機に陥った時

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▲開発に秘めた情熱は人一倍だった本田宗一郎

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▲1978年に日本で公開されたアメリカ映画『GRAND PRIX』公開時に俳優三船敏郎氏と一緒に

 

3. 本田宗一郎のエピソード

3-1. 浜松在の鍛冶屋に生まれる

私は1906年、浜松市の在、静岡県磐田郡光明村(現在天龍市)で生まれた。父儀平は鍛冶屋、私はその長男で、いわばふいごとトンテンカンの槌の音とともに育ったわけである。おじいさんの代には百姓をしていたが、おやじの代になって鍛冶屋をはじめ、家は貧乏だった。それで、よく妹を背におんぶして学校に行ったり、ふいごを押して父の手伝いをした。物心がつくかつかぬかで、くず鉄を折り曲げては何かわけのわからぬものを作って喜んでいた私だけに、トンテントンテンやって農具を作ったり修理する仕事はむしろ好きでもあった。

学校へ行くようになる前から、私は機械いじりやエンジンには興味を持っていた。私の家から四キロほど離れたところに精米屋があって、そのころとしては珍しい発動機が動いていた。私はおじいさんに背負われてその精米屋によく連れてってもらったが、発動機のドンスカドンスカという音と、石油の一種独特のにおいをもった青い煙がたいへん魅力的だった。そこからさらに一キロほど離れて製材屋があり、そこではノコが勢いよくブーンとうなりを立てて回っていたが、私はそれを見るのがたまらなく好きだった。なにしろ機械の動くのを見てさえいれば、しごくごきげんなのだった。

だから小学校(山東小学校)時代にも、理科は五年までの植物や昆虫は苦手だったが、六年になって電池とか天秤とか試験管、機械などが顔を出すようになってからは好きだった。(※中略)私が子供のころ、私どもの村にはじめて電灯がついた。そのとき私はペンチとドライバーを腰にした電気工夫が電柱に上っていろいろワイヤーをひねっている姿を見ていたく感動した。この姿が大げさに言えば英雄の姿にも見え、たいへん魅力的で家に帰っても忘れられなかった。そこで、いろりのソバにすわっているおじさんの肩に上って電気工夫よろしく、ハゲ頭の薄い毛をひねって「オレは電気工夫だ」といって得意になり、はしゃぎ回った。

小学校の二、三年のころ、ある日学校から帰ろうと道を急いでいると、私の村に自動車が来たという話を耳にした。私は何もかも忘れてすっ飛んで行った。例のホロつきのやつで、村のせまい道をノロノロ走っていた。子供の私の足でもすぐ追いついて、自動車のうしろにつかまってしばらく走った。初めて見る自動車。それは感激の一語だった。停車すると油がしたたり落ちる。この油のにおいがなんともいえなかった。私は鼻を地面にくっつけ、クンクンと犬よろしくかいだり、手にその油をこってりとまぶして、オイルのにおいを胸いっぱい吸い込んだ。そして僕もいつかは自動車を作ってみたいな、と子供心にもあこがれた。そういうことがあってから、隣の町にもちょいちょい自動車がやって来るようになり、私はそのたびに学校から帰るやいなや、妹を背に子守りをしながらいつもそれを見に行った。

1914年の秋、私が小学校二年のときだった。約二十キロほど離れた浜松の歩兵連隊に飛行機が来て飛んでみせるという話を聞いた。私はそれまで飛行機というものを絵では見ていたが、実物はまだ見たことがなかった。なんとかして見たいものといろいろ考えたすえ、父にせがんだところでどうせ許してもらえないと思った私は、その数日前、家族の目を盗んで「金二銭也」をせしめ、軍資金を準備した。

いよいよその当日、私は何くわぬ顔で父の自転車を持ち出し、浜松に向かって一気にペダルを踏んだ。もちろん学校はサボったのである。だが小学校二年の私に、おとなの自転車は大きすぎた。しりがサドルに乗らない。そこで片足を三角に突っ込み、いわゆる三角乗りというやつで夢中でペダルを踏み続けた。やっと連隊が目の前に見えたとき、私は胸のときめきをどうにもしようがなかった。

だが、その喜びもつかの間だった。練兵場にはへいが張りめぐらされ、たしか十銭ぐらいにの入場料をとっていた。二銭しか持たない私は自転車をかかえてしょう然とした。せっかく来たのだ。なんとか見たい。ふと目についた松の木に私はスルスルと登った。下から見つかったらおしまいだと思って、枝を折って下の方をかくした。

こうして私は目的を達した。やや遠目ではあったが、私はここで初めて飛行機というものを実際に見、ナイルス・スミス号の飛行機ぶりに感激した。帰途の三角乗りペダルは軽かった。スミス号の飛行士がハンチングのツバを後方に回して飛行眼鏡をかけた勇姿を思い出しながら、私はいつのまにか学帽のツバを後ろ向きにしていた。

家に帰ったらきっとどなられるに違いないと覚悟していたが、初め怒っていた父は、私がこうやって飛行機を見て来たと話すと「お前、ほんとうに飛行機を見て来たのか……」と父自身感激してしまった。その後、私は父に鳥打ち帽をせがんでもらい受け、ボール紙で飛行眼鏡を作り、竹製のプロペラを自転車の前にとりつけた。そして鳥打ち帽を後ろ向きにかぶり、スミス号の飛行士を気取ってその自転車を乗り回した。(※中略)

尋常小学校三、四年のことだった。その日は天長節で、学校では式があった。おふくろはカスリの着物の上に、新しい青い色の帯をしめてくれた。私は得意になって学校へ行ったが、実はそれは母の帯だった。仲間はそれと知って「やーい、お前の帯は女の帯だ」とさんざん私をいじめた。私は泣いて家に帰った。そのとき以来、私は考えた。色に男の色と女の色の区別があるのはおかしい。人間は自分の個性でいくべきで、色とか、格好とかに左右されるべきではない。人に不愉快感を与えたり、めいわくをかけるようでは困るが、着物や色は本来自由であるべきだと思った。

いまでもその考えに変わりはなく、いま私が赤いシャツを着たり、勝手な格好をしているのも、こういう考え方からである。こういった勇気というか決断がもてなくてはいいデザインができるはずがない。デザインと芸術の違いについてはあとで述べる。

さて、私は尋常小学校を終えると、二俣の高等小学校に進んだ。そして私が高等科を卒業するころには、おやじは鍛冶屋から自転車屋に商売替えしていた。そのためか、おやじは「輪業の世界」という雑誌をとっていたので、私もよく読んでいた。あるときその雑誌の広告欄を何気なく見ていると「アート商会」という東京の自動車修理工場の求人募集広告が目についた。

 

3-2. 自動車修理工場に見習奉公

アート商会は東京の本郷湯島5丁目にあった。いなかから出てきて生まれてはじめての東京に目を見はった父と私は、ようやく目的のアート商会を探しあてた。そこの主人榊原侑三という人に会って私のことを頼んだ父は安心してすぐいなかに帰っていった。私も満足して父を通りまで見送った。私は自動車修理工場のデッチ小僧になったのだ。

ところが、私がいだいてた夢と現実とは全く違っていた。故郷を離れ、東京の土を踏んだときは燃えるような希望に胸をふくらませていた。だが事実は、来る日も来る日も主人の赤ん坊の子守りしかさせてもらえなかった。背中がじんと暖かくなると赤ん坊のおしっこだった。すると「本田の背中にまた世界地図が書いてあるぞ」と兄弟子たちからバカにされ、からかわれた。私はデッチ小僧というものは最初はみんなこういうものなんだと観念し、歯をくいしばってがまんした。

来る日も来る日も子守り、手に握らされたものは夢に見た修理道具のスパナではなく、ぞうきんだけだった。失望と情けなさに、私は何度柳行李をまとめ、二階からロープを伝って逃げようと思ったことか。そのたびに故郷のおやじの怒る顔と、おふくろの泣く姿が目に浮かんで決意が鈍った。

こんな毎日が半年ほど続いた。アート商会は東京でも数少ない自動車修理工場の一つで、なかなか繁盛した。ある日「小僧、きょうは忙しくてしょうがないから、こっちへ来て手伝え」という主人の声がした。私は夢ではないかと自分の耳を疑った。うれしかった。大雪の降った寒い日だったが、私は寒さも忘れ、無我夢中でポタポタしずくの垂れる自動車の下にござを敷いてもぐり込んだ。ワイヤの切れたアンダーカバーの修理だった。

これが私が初めて自動車修理をしたときで、そのときの感激は一生忘れることはできない。それからというものは、多少は主人に認められはじめ、いやな子守りは少なくなって、修理工としての仕事を多くするようになった。あとで考えると、やはりあのとき子守りで半年間がんばったことがよかったのだと思う。あのときの苦労と喜びを思い出せば、どんな苦しさでもけし飛んでしまう。長い目で見れば人生にはムダがない。

デッチ奉公をはじめてから一年半ばかりたった1923年の九月、関東大震災が発生した。そのとき私がまっさきに飛びついたのは、なんと電話だった。電話が非常に高価なものだと聞いていたので、ドライバーで電話機を取り外し持って逃げようとしたのである。

「電話機だけ持って出てもなんにもならん。それより早く自動車を出せ。運転のできる者は一台ずつ運転して安全な場所へ運べ」と主人がどなった。地震と同時に諸方から上がった火の手はアート商会にも迫ってきた。修理工場には預かった車が何台かあった。私は内心しめたと思いながら修理中の自動車に飛び乗って街路に出た。街路は群衆でごった返していた。その間を縫ってあぶなっかしかったが、私は初めて自動車を運転した。それは私にとって何にも替えがたい喜びであり、機会であった。

震災でアート商会が焼け、主人一家と神田駅近いガード下に移転した。その隣に食料品会社の倉庫があり、私たちはそこから焼け残りのかん詰めを持って来て飽きるほど食べた。

そして暇さえあるとオートバイに乗って焼け野原の町中に出た。焼け出されていなかに帰るのに困っている人たちをサイドカーに乗せて板橋あたりまで乗せてやると、礼金をたくさんくれた。その金で農家から米を買って来たこともあった。いなかの両親にはいちおう無事でいることは知らせたが、毎日のように乗り回すオートバイがおもしろくてたまらなかった。

十五、六人いた修理工はほとんどいなかに帰り、主人一家のほかには兄でしと私の二人しか残っていなかった。主人は芝浦の工場で焼け出された多数の自動車の修理を一手に引き受けてなおしはじめた。材料も満足なものがなく、いま考えるとインチキ修理だったが、ともかくニューのように塗装を終え、体裁を整えて組み立てるとりっぱにエンジンがかかった。いちばん困ったのはスポークである。当時、自動車の車輪は皆木製のスポークを使っていたので、火事にあうと何も残らなかったのだ。

自動車運転、オートバイ散歩、修理技術をおぼえるなど、私にとってはむしろ震災さまさまだった。

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▲本田宗一郎のアート商会勤務時代。1923年の関東大震災後、車の修理のため焼け野が原を駆け巡った

 

3-3. 小僧っ子から神様へ

私が十八歳のとき、主人から盛岡へ出張して消防自動車をなおしてこいと命ぜられた。年こそ若かったが、腕の方は認められていた証拠だろう。喜び勇んで盛岡まではるばる汽車で乗り込んだが、着いてみるとむこうの消防団長はじめ関係者は妙な顔をしている。「こんな小僧に何ができるんだろう」とむしろ当惑顔さえしている。まるっきり小僧っ子扱いされた私があてがわれた宿のへやは女中べやの隣であった。そして自動車をどんどんばらしていくのを見て、こわされてしまいはせんかとハラハラしながら言った。「小僧さん、そんなにしてだいじょうぶかね」と。

そんななかにあって黙々と作業を続けた私は三日目にまた元通り組み立てを終わった。そして試運転のエンジンをかけると消防車のエンジンをみごと動き出した。「おい、みんな動くぞ、水が出るぞ」と団長らはびっくりするやら驚くやらである。私もこのときばかりは得意満面だった。これまでバカにしていた人々の目が急に尊敬の色に変わった。

その日の夕方、旅館に帰ると、へやは女中べやの隣から床の間のついた一等室へ替えられていた。現金なものだ。けさまでの小僧扱いから、一躍神さま扱いへの変わりようである。こんな三段とびの待遇改善に、こんどはこっちの方がめんくらってしまった。お銚子が出る、女中が出て来ておしゃくもしてくれる。酒を飲むのもはじめて、まして女の人からおしゃくをされるなどなおさらのこと、さかづきを持つ手がガタガタふるえて止まらなかった。

私もそのころはまだ純情そのものだった。いまにして思えば、最初の女中べやの隣室は全く地の利を得ていたわけで、残念だったと思わぬでもない。だがそれよりもいっそう身にしみて感じたのは“技術”のありがたさ、貴重さであった。

東京に帰り、この報告をすると、主人もとても喜んでくれた。そんなことで主人も私の技術を高く買うようになり、私も精いっぱいの奉公を続けた。徴兵検査では色盲と誤診されて甲種合格を免れたので、さらにもう一年お礼奉公をした。

【エピソード1】

アート商会の主人・榊原郁三は、優れたエンジニアであり、経営者だった。修理業にとどまらず、ピストンの製造までを手掛けた企業家でもあった。

本田は「尊敬する人物は?」との質問に、必ず、かつての雇い主、榊原の名を挙げている。さらにアート商会の修理業務には、モーターサイクル(オートバイ)が含まれていたことも、意味深い。当時は、自動車もモーターサイクルも、限られた階層の持ち物だった。そして、そのほとんどが外車だった。しかも、現在よりはるかに数多く存在していた世界中の大小さまざまなメーカーのクルマ、大量生産車から少量生産高級車、スポーツカー、こんなクルマまでがと驚くほどの希少車までも、日本に輸入されていた時代だった。アート商会には多種多様なクルマが修理に持ち込まれた。知識旺盛な本田には、絶好の実地勉強の場所だった。

ホンダの二代目社長河島善好は言う。「よくまあ、そんなことまで知っているなぁとビックリするくらい。クルマのエンジニアリングの知識は広くて深かった。メカニズムには精通していました。アート商会の徒弟時代、アート商会浜松支店でも経営者時代、おやじさんは、それこそ現場・現物・現実で、それらを学んだんでしょうね。知識だけでなく、溶接から鋳造から、何から何まで名人級です。紙の上の学問しか知らなかった僕らじゃ、とても歯が立たなかった」

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▲アート商会の徒弟時代、主人の榊原兄弟を手伝ってレーサーのカーチス号をつくり、レースにはライディングメカニックとして同乗し、1924年11月23日の第5回日本自動車競争大会で優勝した。中央が本田宗一郎。左がアート商会経営者・榊原郁三氏、右はドライバーの榊原真一氏。

 

3-4. 若者と二人で「浜松支店」

アート商会の六年間で、私は一応修理工としての技術を修得、自動車の構造、修理、運転をマスターした。そこで主人も私を信用して下さり、いわゆる“のれんわけ”をしてくれた。こうして郷里に近い浜松に「アート商会浜松支店」という看板をかかげ、一本立ちして自動車修理業を開業したのが私に二十二歳のときである。

「アート商会浜松支店」という名前こそりっぱに見えるが、実は私と小僧一人きりというささやかなもの。だが故郷の父は、私の開店を心から祝ってくれ、家屋敷と米一俵を贈ってくれた。

私が開業したころ、浜松にはほかに二、三軒しか修理工場がなかった。開店当初は店主といっても徴兵検査をすぎたばかりの私である。「あんな若僧になにが…」ということでなかなか思うように仕事が得られなかった。しかし、よその修理工場ではなおらなかった車が私のところに持ち込まれてなおったということがちょいちょいあって評判になりはじめ、なんでもなおるというようなうわさまで立つようになった。こうして仕事はどうやら軌道にのり、その年の暮れの三十一日、勘定を締め切ってみると八十円が残った。

最初の年に、しかも二十二歳で八十円残したわけだから全くうれしかった。そのとき私は一生のうちになんとか千円ためようと決心した。そして働きまくった。なにしろ機械は大好きで手先は器用だったから、手近なものを改良したり、研究したり、製作するなど仕事に熱がはいった。またそれがおもしろかった。(※中略)

こうして二十五歳のときには、もう月々千円もうけるのは軽かった。二十二歳のとき一生かかって千円ためようと思ったことが、わずか数年で毎月千円以上もうかるようになったのだ。工員は五十人ぐらいにふえ、工場もどんどん拡張した。そして収入がふえてくるとそれだけに遊びも激しくなり、金をためようという気などはどこかへ行ってしまった。元来がけちけちした遊び方のきらいな性分だ。他人にめいわくをかけず、自分の遊びは自分の金で、という主義なので、その遊び方もいきおいハデなものであった。

若さと金にものをいわせて芸者を買っては飲めや歌えの大騒ぎをしたり、芸者連中を連れて方々を遊び回った。おかげで長唄、端唄、どどいつなど別に習ったわけでもないのに自然におぼえてしまい、人前でもいくらか聞いてもらえるようになった。

二十五、六歳のころは私は自家用車―そのころはお屋敷車といっていた。もちろん外国製-を二台持っていた。その車に芸者を乗せてはよく遊びに出かけたものである。

あるとき、半玉を乗せて静岡に花見に行った。したたか花見酒を飲んでその帰り道、車の中でもおかんをして、なお酒を飲みながら運転して天龍川の橋にさしかかった。五十銭の渡り料を払って渡り始め、少し行ったところで運転を誤り、あっという間に橋の手すりを二十数本こわして、自動車もろとも天龍川に飛び込んでしまった。完全な酔っ払い運転である。

だが幸い、橋の高さが低く、車は水ぎわ寸前で止まったので二人とも命は助かった。私は地元の新聞にまたデカデカと出されるのをおそれた。「また」というのは、その少しばかり前に税務署員と払う払わないで大げんかをし、あまりしゃくにさわったのでホースで税務署に水をかけた。つね日ごろ二十五歳ぐらいの若僧が四十男、五十男顔負けの豪遊をしていたので内心おもしろからぬ気持ちも持たれていたのだろう。翌日の新聞のトップに“アート商会大あばれ”とさんざん書かれてしまった。

“アート商会芸者を連れて大あばれ”とまたやられてはたまらない。そこで半玉をそっと助け出し、橋の上に押し上げて金を渡し「人目につかぬよう、これでハイヤーを拾って先に帰れ」と言った。だが半玉はまだ゚シクシク泣いて泣きやまない。「どうした」ときくと「はいて来たゲタの片方が見えなくなった」という。

「そんなもの帰ったらすぐ買ってやるから」と言って帰したが、私は自分の持ち物い対する女の執着心の強さというものを、このときほどつくづく感じさせられたことはなかった。

酔っ払い運転のあげく、芸者と橋から転落した事件も、どうやら新聞に出ずに済み、ことなきを得たが、この後日談がある。

私がのちに東海精機をつくり、ピストンリングの製造をやるようになっての戦時中のこと、私と宮本という専務の二人で磐田工場に行くバスに乗った。私たちはすわったが、途中から乗ってきたどこかのおかみさんが子供をおぶってつり皮につかまっている。「どうぞ」と言って席を譲ってやった。その瞬間、お互いに視線が合った。「あら、本田さんじゃありませんか」「いや、どうも、これはしばらく」天龍川にいっしょに飛び込んだあの半玉との再会というわけである。間もなくバスが天龍の橋を渡ったとき「ここだったわね」とおかみさんは言った。私もあの晩のことをなつかしく思い出した。

だがそばにいた宮本専務にはなんのことかわかるはずがない。あとで「ここだったわね」とはいったいなんのことだと私を責める。それまでだれにもないしょにしていたこの事件は、このときはじめてご披露に及び、逐一当時の模様を話して腹をかかえたしだいだった。(※中略)

だが芸者相手にいま考えるとぞっとするようなたいへんなことを仕出かしたこともある。浜松では毎年五月に「たこ祭り」が行われるが、そのお祭りの日に私は友人と二人で料理屋で芸者相手に飲めや歌えやの大騒ぎをしたことがある。芸者もこっちも相当酔っ払っていたが、そのうち芸者がちょっとなまいきなことを言った。われわれ二人はそれをとがめて「このなまいきやろう」と芸者を料亭の二階から外へほうり投げてしまった。その瞬間、パッと火花が飛んだ。

外を見ると私の投げた芸者のからだが電線に引っかかっていた。私はあわてた。酔いはいっぺんにさめて飛びおりるように外へ出た。そして電線にかかっている芸者の足をひっぱり、やっとの思いでおろした。五月のことで、芸者もわりと厚着をしていたので命拾いしたが、もしこのとき電線にひっかからずにまっすぐ下の道路に落ちていたら、芸者の命はなかったと思う。そして私はいまごろまだ刑務所生活をしていたかもしれない。もちろん、いまの本田技研もありえなかった。きわどいところで助かったのは私の方だともいえる。

そのときの芸者は、いま飲み屋のおかみになっており、彼女にはいまだに頭が上がらない。

こうして若いときにはよく遊んだが、それは決してむだではなかったと思っている。花柳界に出入りしていると、人の気持ちの裏街道もわかってくるし、いわゆるほれた、はれたの真ん中だから、人情の機微というものも知ることができる。私がただまじめ一方の技術屋とはいささか違うところを持っているとすれば、こんなところに元があるといえそうだ。他人にめいわくをかけたり、人の金で遊ぶのはよくないが、若さのあるうちにこういう経験も一度ぐらいあってもいいのではないか。別に奨励するわけではないが…。

若いときには仕事のほかにも趣味をかねていろいろな機械を作って遊んだ。機械いじりは元来私の道楽なのである。自分が作ったモーターボートに若い工員や芸者たちを乗せ、浜松湖上を走り回ったものだ。いま、はやっているモーターボートの波乗りなどはとっくの昔にやったこと、私にとっては流行遅れの遊びでしかない。

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▲手製のモーターボートを運転して遊んだころ

暇を見て自分で作ったもので忘れられないのは、競走用自動車のことである。東京のアート商会で小僧をしていたとき、主人がレーサー(競走用自動車)好きで私につくってみろという。鍛冶屋の子の私はトンテン、トンテンができる。そこで仕事が終わったあと夜八時ごろから十二時ごろまで、水っ鼻をたらしながらやった。初めの数台は砲兵工廠で使っていたダイムラーベンツ・オークランドという古い車のシャシーに乗せて車体を作った。次に千葉県の津田沼にあった飛行学校から払い下げてもらったカーチスのエンジンを改造して二台つくった。このレーサーは非常によく走り一着を取った。そういうことがあったので、私は浜松でも暇を見つけてはコツコツとレーサー作りに余念がなかった。そのうち実施にためしてムズムズしてきた。そこで当時東京の多摩川べりで開催されていたオートレースに出場した。はるばる浜松からの遠征である。何回か出場し、ときには優勝するなど相当活躍した。

それは1936年七月、三十一歳のときのこと、同所で行われた全日本自動車スピード大会に出場した私は、自作のレーサーを駆ってゴール寸前、時速は百二十キロをこえた。そして、も少しで優勝というとき横から修理中の自動車が出てきた。アッという間もなく接触した私の車はトンボ返りに三転した。グラッと体が大きくゆれ、視界が逆さになるのを感じた。車からはね飛ばされて、地面にたたきつけられた私はさらにも一度バウンドして気を失った。

病院のベットの上で意識を回復した私は、顔中に激痛を感じた。あのサイレンを鳴らす救急車で病院に運ばれていたのだ。顔の左半分がつぶれ、左腕がつけ根からはずれて手首も折れていた。助手席に乗っていた弟はろっ骨を四本折る重傷だった。「よくまあ二人とも助かりましたね」と看護婦はびっくりして言った。そのときの傷跡は左目わきにいまも残っている。

このときのレーサーはフォードを改造したもの、私の出した百二十キロのスピードはわが国の新記録だった。それで優勝こそ逸したが、特に優秀トロフィーをもらった。この記録が破られたのはつい最近のことである。人間は妙なもので、二、三十キロのノロノロ運転でも命を失う人があるかと思うと私のように猛スピードでの事故でも生きていることがある。全くの命拾いであった。

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▲事故の瞬間を捉えた写真。転倒する車から飛び出しているのが本田宗一郎。1936年多摩川で行われた全日本自動車スピード大会にて。

 

3-5. ピストンリング製造に苦闘

二十八歳のとき、私は繁盛していた修理工場を閉鎖し、新しく東海精機株式会社をつくってピストンリングの製造をはじめた。順調にいっていた修理工場をやめ、どうして商売替えしたかというと、自分の使っていた工員たちがボツボツ独立して店を持つようになったものの、自動車が急にふえるでなし、結局私の商売がたきとなって競争することになる。私はそれがいやだった。それに修理屋はやはり修理屋だけのことしかない。いくら修理がうまくても東京や米国から頼みに来るわけがない。そのうえ昭和十二年の支那事変以来物資の統制がきびしくなってきたので、材料が少なくてすむ事業に切り替える気になった。修理から製造への一歩前進を策したわけである。

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▲1935年、本田宗一郎が28歳の時のアート商会浜松支店。左のクルマ『ハママツ号』の横にサングラスをかけた本田がいる。左から15人目は弟の本田弁二郎。右端には当時としては珍しかったリフト式修理台が写っている。これも、本田の発明品の一つである。

だが、はじめは重役の反対が強くてなかなか踏み切れなかった。そのうち顔面神経痛にかかり、医者だ注射だ温泉だと二ヶ月以上も仕事から遠ざかってしまったが、その間反対者をくどきおとしてくれる人があってようやく転換に踏み切ることが決まった。するとどうだろう、ふしぎにもこれまで苦しんでいた顔面神経痛がけろりとなおってしまった。これにはわれながら驚いた。

だが、転換したもののピストンリングの製造は考えていたほど簡単にはいかなかった。しかたがないので鋳物屋のおやじに聞きに行くと「途中からやろうたって、そんな簡単にできるわけがない。やっぱり年期奉公しなければ……」と剣もほろろの返事、作れるもの、売れるものと思って、すでに機械は金をかけて据えつけ、工員も五十人ぐらいかかえているのだから、どうしても成功させなくてはならなかった。

宮本専務といっしょに毎日、夜中の二時三時まで鋳物の研究に取り組んだ。髪はのび放題、妻を工場に呼んで長くのびたのを切らせながら仕事を続け、疲れてくると、酒を一杯ひっかけて炉ばたのござの上でゴロ寝するという日が続いた。私が一生のうちで最も精魂をつくし、夜を日に継いで苦吟し続けたのはこのころである。たくわえも底をつき、妻の物まで質屋に運んだ。ここで挫折したら皆が飢え死にするとがんばったが、仕事はさっぱり進展しない。絶体絶命のピンチに追い込まれた。

こう思うようにいかないのは、私に鋳物の基礎知識が欠けているためだと気づいたのはそのときだった。そこでさっそく浜松高工(現、静岡大学工学部)の藤井教授をたずねてご指導をいただこうとした。先生は同校の田代教授を紹介してくれた。田代教授に私の製作したピストンリングを分析してもらうと、「シリコンが足りませんね」と言われた。私は「そんなものがないといけないんですか」といった調子、いまにして思えばこんな基礎的知識さえなく始めたのだから全く無茶だったとあきれかえるよりほかない。そこでやはり大きく飛躍するには根本的に基礎からやり直すべきだと思い、当時の校長安達先生にお願いして、浜松高工の聴講生にしてもらった。

事業主としてこの間の生活は遊びどころではなく、非常に苦しい日々が続いた。だがピストンリングの製作に成功すればどうにかなるという前途に期待をかけ、みんな励まし合ってこの苦しさと戦った。

どうにか物になるピストンリングの製作に成功したのは1937年十一月二十日だった。製作にとりかかってからすでに九ヶ月すぎていた。大勢の工員をかかえ製品なしの辛苦なしの九ヶ月だった。

一方、浜松高工の聴講生としての私は、ダットサンで通学しはじめた。先生方は歩いて登校しているのに、生徒の私は自動車だったからたちまち評判になった。だが講義の方は、他の生徒が全部先生のことをうのみにして筆記しているのに、私の頭はピストンリングの研究とその成功をはかることでいっぱいだったから、あそこで失敗したのはこれだな、こうすればいいんだなといった調子で話を聞くだけでメモはとらない。試験の日になると休んで受けなかった。そこでとうとう二年たったある日、退学を言い渡されてしまった。

校長に退学の理由を聞きに行くと「君、試験を受けなかった者に卒業免状はやれないよ」と言う。そこで私は負け惜しみではないが、「免状なんてどうでもいいですよ。私は免状のために学校に来ていたのではありません。仕事のために勉強しているのですから。映画の切符なら必ず映画館にはいれるが、免状じゃ映画も見られません。映画の入場券より悪いじゃないですか。免状をもらっても絶対に食えるという保証はない。そんな免状なんか……」と毒舌をはくと、校長先生はひどく怒った。

私は退学を命じられても、しばらくの間は自分の好きな時間になると出て行って講義を聞いていた。こうなると月謝は払わないですむ、よけいな勉強に神経を使う必要がない。しかも仕事に必要な研究成果はいただくという前よりむしろ虫のいい寸法と相成った。そしてこのときの勉強が大いに役に立ち、物を考える際とか技術上の疑問点を問いただすときなどの基礎となった。

さて、やっとピストンリングを作れるようになったものの、量産され商品化するまでにはなお血みどろの苦闘が続いた。研究室を作った研究を重ねたが、いざ販売するとなるとなかなか骨が折れた。トヨタ自動車に納めようと三万本ほど作り、その中から五十本ほど選んで納品検査をしたらわずか三本しか合格しなかったというみじめな思いもした。その間、製品は中小会社に流してほそぼそとどうやら暮らしていた。

資材は統制がいよいよきびしくなり工場を建設するにもセメントがない。そこで私は自分で原料を集め、くふうして自家製セメントを作り、これで土台を築いたりした。

そのうち研究の成果が少しずつ現れ、二年かかってようやくトヨタの納品として合格するようになった。それがもとで、戦時中トヨタの資本が四十%はいり資本金百二十万円の会社に成長してピストンリングの生産は本格化した。そのときトヨタから取締役としてはいって来たのが石田退三さん(トヨタ自工会長)だった。

こうして終戦までピストンリングの製造をやっていた。それも自動車だけではなく、海軍の船とか中島飛行機の部品まで造った。特に私が力を入れたのは、ピストンリングの生産方法を女の子にでもできるように自動式に改良したことで、この経験が戦後、オートバイの量産をはかるうえに非常に役立った。

戦時中、日本楽器ではプロペラを作っていたが、そこからプロペラの削り機を作ってくれと頼んできた。それまでの削り機は手動式のもので、プロペラ一本削りあげるのに一週間もかかった。これではとても大量生産できるはずがない。そこで私が考案したのがカッター式の自動削り機である。それは三十分に二本作れる当時としては驚異的な工作機の発明だった。多方面から注目され読売報知新聞は「翼増産へ技術の凱歌、手の労働脱却」という見出しで大々的に報道し、私は軍から表彰された。

しかし、それもつかの間、1954年に浜松地方に大地震がって工場は倒れ機械はこわれた。そしてこわれた機械を修理しているうちに終戦になってしまった。

 

3-6. バイクからオートバイづくりへ

終戦となってピストンリングの製造は完全にお手上げとなった。東海精機の株主であるトヨタからはトヨタの部品を作ったらという話があったが、私は断然断って私の持ち株全部をトヨタに売り渡し身を引いてしまった。戦時中だったから小姑的なトヨタの言うことを聞いていたが、戦争が終わったのだからこんどは自分の個性をのばした好き勝手なことをやりたいと思ったからである。またGHQ(連合軍総司令部)の財閥解体、工場解体指令でトヨタも解体されるのではないかといううわさもあり、ここできれいさっぱりと縁を切った。

トヨタに東海精機を売り渡して得た金は四十五万。これを元手に次になんの仕事をしようかと考えたが、なかなか見当がつかない。こんな混乱の時にガタガタしてもしかたがない。一年間ようすを見ようと尺八など吹いて遊び暮らしていた。

東海精機の工場が残っていた磐田にアルコール工場があり、そこで私は思い切ってドラム缶にはいった医薬用アルコールを一本一万円で買って来た。終戦直後の一万円というのはかなりのもの、これをわが家にデンとすえつけ、これを使って好き勝手に自家用合成酒をつくった。そしてしょっちゅう友だちを呼んできては飲んでいた。

そのころ磐田に警察学校ができ、私は頼まれてそこの科学技術担当の嘱託になった。むろん無給である。だが退屈で困っていた私はいい遊び場所ができたとばかり、例の自家用酒をぶらさげて行って飲んでは将棋をさしたり、オダをあげていた。

この期間はこれといった仕事もしなかったかわり、遊びながらいろいろなことをやった。みんなが食糧に困っていた時代なので浜松の海岸で電気製塩をやり、塩一升と米一升を交換して喜んでいた。技術屋だから製塩などは良質のものが人より器用にできた。

そのうち女房らは、私が遊んでばかりいていつまでたっても本気で事業に取りかからないのを見て心配しはじめた。私が敗戦ボケで腑抜けになってしまったのではないかと思ったらしい。しかし、私としては遊んでいてもただ遊んでいたわけではなかった。次に何をやろうかと絶えず心ひそかに考えていた。

【エピソード3】

さち夫人の証言-

「東海精機の株を、トヨタさんに全部お譲りして、無職になってしまったの。軍がいばりくさる時代が終わってよかったなぁ。これからしばらくは何もしないよ。お母さん、当分養っとくれって、本当にまるで働かない。食糧難の最中でしょう。お父さんのほかに育ち盛りの子供三人、庭を耕して野菜つくったり、私の実家は農家ですからお米を分けてもらいにいったり。あの人は庭に出ても草一本むしらない。ひがな一日、庭石に腰掛けてるだけ。ご近所で評判の『何にも仙人』でしたよ。夜になると友達を集めて、知り合いの酒屋さんに内緒で売ってもらったドラム缶一本のアルコールで酒盛り。お父さんらしいのは、アルコールを炒った麦と杉の葉を入れて、ウィスキーっぽく工夫するところ。やらされたのは私ですけどね。やれ麦が焦げ過ぎたとか、口だけはやかましく注文して。そのうち、人のウワサでは製塩機をつくったとか、アイスキャンデー製造機をつくったとか聞こえてくるけど、本人は何も言ってくれない。塩一つまみも、アイスキャンデー一本も家に持って来ないんです」

 

そしてまず私がとりかかったのは織物機械をつくることだった。当時は“ガチャ万”時代といわれるほど織物産地の浜松では織機一台持っていればすばらしい金もうけができた。それほど衣料品が不足していた。だがそのころ使っていた織機はシャットル式という水平往復運動だけの能率の悪い機械だった。そこで私はたてにも動き早い速度で大幅物も簡単に織れるロータリー式の織機をつくってみようと考え、浜松に持っていた六百坪ばかりの土地に五十坪ほどの疎開工場のバラックを買って来て本田技術研究所を設立した。終戦の翌年のことである。

しかし、さんざん遊んだあげくではあり、資金もたいしてなかったのでとても飯を食う手段にはならない。そこで織機をあきらめて考えついたのがモーターバイクであった。戦争中、軍が使用していた通信機の小型エンジンが付近にゴロゴロしていたのを安く買い集め、それを自転車につけて走らせたのだ。

 

【エピソード4】

1946年九月のある日、友人の家を訪れた本田は、そこで偶然、小さなエンジンに出逢う。アート商会浜松支店を経営していたところ、タクシー会社をやっていた友人が、たまたま知人から預かっていた旧陸軍の六号無線機発電用エンジン。これを見た本田の頭に、アイディアがたちまちひらめく。

この出逢いが、彼の向かう将来を決め、後のホンダを生む決定的瞬間だった。本田は、もともと自動車修理工でエンジンはお手のもの、そして、発明家である。「これを自動車用の補助動力に使おう」。

自転車に補助エンジンを付けるというアイディアは、昔からあった。イギリスなどで製品化され、戦前の日本にも少量ながら輸入されていた。そもそも、モーターサイクルの発祥そのものが、自転車に動力を付けることから始まったのだ。補助エンジン付き自転車は、モーターサイクルの祖型・原型に近い。しかし、あったというだけで、戦前には全く普及していない。だが、戦前より劣悪になっていた日本の交通事情の中では、大衆の足は自転車だった。山のような荷物を積んで働く運搬道具でもあった。これに補助動力がつけられたら、どんなに楽か。どれほど役に立つか。人に喜ばれて、同時に商売になるアイディアを、本田自身が最も得意とする分野の中で発見したのだ。家にあった湯たんぽを、とりあへず燃料タンクに活用したというエピソードも、この時のことである。

「こんなのができたから、お母さん、乗って走ってみろよ」って、一台家に持って来たんです。私が自転車を漕いで、食料の買い出しに行く苦労を見かねてあれをつくったなんて、あとでカッコいいことを言ってますけど、そんな気持ちも少しはあったかもしれません。だけどそれより、女でも扱えるかどうか知りたかったのが本音だわね。私はいわば実験台。人がいっぱいの表通りを走らされるんですから、一番きれいなモンペをはいて乗りましたよ。ひとしきり走って戻って来たら、一張羅のモンペが油でベッタリと汚れちゃってるの。『これじゃあ駄目ですよ、お父さん。買ったお客様に叱られてしまいますよ』と言ったら、いつもの『うるさい!よけいなことを言うな!』が出ないで、『うん、そうだなぁ』って珍しく素直だったわよ。」

汚れる原因は、キャブレターからの混合油の吹き返しだった。さち夫人の意見通り、市販時には汚れを防ぐ改良が、きちんとされていた。

20180515原動機バタバタ
▲さち夫人が代用ガソリンの松根油で乗った補助エンジン付き自転車。陸軍の無線機発電用のエンジンがメインになっており、これが本田宗一郎の生涯最初の製品だ。戦後の日本の焼け野が原でこのエンジン付自転車は大人気になり、その爆音から“バタバタ”という呼称で親しまれた

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▲本田宗一郎は、工場でぱっと閃くと「チョーク持ってこい!」と叫び、その場で床に設計図を書き出したという

 

【エピソード5】

二代目社長になる河島喜好は1947年に初の学卒エンジニアとして採用された。本田の自宅で、コタツにあたりながらの就職面接を経てのことであった。

「学校出の人に払うような給料を、今のウチでは出せないんだ、とお父さんが言ったのに、河島さんは、それでもいいです、と言ってくれたんですよ」と、さち夫人。

その河島は「うーん、はっきり言いまして昭和二十二年でしょ。就職難の最中。もう、いくらでもいい。とにかくエンジニアらしい仕事をさせてもらえるなら、どこでもよかった。おやじさんは浜松では有名な技術者でしたから、その人のところで働けるのならって。それに家が山下町の隣の元目町なので、歩いて五分。交通費もいらない。確かに初めは安給料で、時々遅配もありましたが、親掛かりの独身ですからまあ大丈夫。今思えば、運が良かった。明日からおいで、と、簡単に就職が決まった」

「こういうこともありましたよ。ある日、さち夫人が山下工場の事務所に来られた。奥さんが見えたけど、何だったのと聞いたら、経理担当の男が、お父さんが一銭も家にお金を入れてくれない。お買い物ができないから、悪いけどお金を貸してちょうだいって言って来られたんですと。おやじさんにしてみれば、従業員の給料のほうが優先なんだ。女房子供なんかあと回し。そういう人だったんですよ」と付け加える。

 

7. 東京に進出、初の四サイクル

私の会社の人物評として、よく“技術の本田社長、販売の藤澤専務”といわれるが、その藤澤武夫君と私との出会いは、ドリーム号の完成した昭和二十四年(1949年)八月であった。

当時モーターバイクが好評で、作るそばからどんどん売れる。自分がくふうしたものが人に喜ばれて役に立つということに無上の喜びを感じていた私はもうけの方をつい二の次にしていた。そしていつのまにか月産千台もの企業に拡大してしまったが、そうなると売り先は小さな自転車屋とか終戦の混乱に乗じてかねもうけをたくらむヤミ屋、復員した連中といったきわめて不安定なおとくいさんである。

この時分、日本全体が不安定な世相だったのだから、おとくいさんだけを不安定呼ばわりするのは少しおかしいが、とにかくきのうは店を開いていたと思って売り掛け金を回収に行くと、次の日には店は閉まっていて、本人はどこへ夜逃げしたのか、だれも知らないといったぐあい、品物は出ても代金がほとんどはいらない。

これではこっちが破産してしまう。弱ったなと頭をかかえているところへ現在本田の常務をしている竹島弘君が藤澤君を紹介してくれた。竹島君は戦時中、中島飛行機にいて、私が東海精機で作ったピストンリングを見て、これなら使えると私に中島の仕事を手伝わせるキッカケを作った人である。

ちょうど同じころ藤澤君もいまならインチキともいえるひどいバイト(削り機に用いる刃物)を作って中島に納入していたので、竹島君は私と藤澤君の二人を知っていた。その竹島君が終戦後通産省に勤め替えして私の仕事の担当局にいたので、私がつぎつぎと発明をし新製品を出すには出すが、かねが取れないで困っていることをよく知っていた。そこで「おかねのことなら藤澤にまかせておけばなんとかするだろう。そうすればお前の苦労は減って好きな技術の道を歩けるようになろう」というので二人を会わせてくれたわけです。

20180512本田氏と藤沢氏
▲コンビを組み、大きな夢を語り合ったころの本田宗一郎(左)と藤澤武夫

私は東海精機時代はもちろん、それ以前から自分と同じ性格の人間とは組まないという信念を持っていた。自分と同じなら二人は必要ない。自分一人でじゅうぶんだ。目的は一つでも、そこへたどりつく方法としては人それぞれの個性、異なった持ち味をいかしていくのがいい、だから自分と同じ性格の者とでなくいろいろな性格、能力の人といっしょにやっていきたいという考えを一貫して持っている。

藤澤という人間に初めて会ってみて私はこれはすばらしいと思った。戦時中バイトを作っていたとはいいながら機械についてはズブのしろうと同様だが、こと販売に関してはすばらしい腕の持ち主だ。つまり私の持っていないものを持っている。私は一回会っただけで提携を堅く約した。

これに関連して、つねづね私の感じていることは、性格の違った人とお付き合いできないようでは社会人としても値打ちが少ない人間ではないかということである。世の中には親兄弟だけで会社を経営して、自分勝手なことをするような会社があるが、人材は広く求めるべきもので、親族に限っているようではその企業の伸びはとまってしまう。本田技研の次期社長は、この会社をりっぱに維持、発展させうる能力のある者なら、あえて日本人に限らず外人でもかまわないとさえ思っている。

ドリーム号を完成し、藤澤専務を販売に迎えた私は、翌二十五年(1950年)三月、東京い営業所をつくり、東京進出の拠点とした。どうして東京進出を考えたかというと、私みたいな男が浜松のようないなか町にいると、どうも周囲の雑音が多すぎて困る。赤いネクタイを締めて傍若無人に自動車やオートバイをぶっとばして夜中の一時二時に帰宅するものだから、近所から文句が出る。朝早く出かけて夜おそく酒に酔って帰ったりする私は全然なんとも感じないが、うちにいる女房がネをあげてしまった。

「本田さんのとこは、このごろ赤いネクタイを締めたり、毎晩おそく酒に酔って帰って来るようだけどだいじょうぶですか」と、いかにも私がうわ気でもしているかのようにウワサする。私は人にめいわくさえかけなければ、自分は自分だという考えだから、あたりの評判など気にせず動き回った。だかいつまでもこんなところにいたのでは窒息してしまう。自分の持っている個性すら発揮できなくなり、新しいデザインの考案だってむずかしい、と気がついた。そこでもっと開放されるところに出なければと東京進出を図ったわけである。

二十五年九月に東京の北区上十条に組み立て工場を作り、新しい意気に燃えて仕事に取りかかった。

郷に入れば郷に従えで、のんびりしたいなかにいては、製品もやはりいなかっぽい、やぼなものができがちだ。しかしこんどは刺激の強い都会で思う存分の仕事ができると思うと、実にそう快な気持ちになれた。そこでさっそく月産三百台のオートバイの組み立て工場をつくると申請したところ通産省に呼びつけられた。

「三百台なんてとんでもない。オートバイがそんなに売れると本気で思っているか」としかられたのである。「本田はガソリンの割り当てをふやしてもらうのが魂胆だろうが、それにしてもちょっと気違いじみていやしないか」と同業者はさんざん私をこきおろした。だが、事実はその三百台が月産十万台以上を生産するまでになっているのである。当時十万台なんて言ったら、それこそ脳病院にでも入れられてしまったろう。

こうして新しい環境で研究を進めた結果、それまでの二サイクルエンジンに代わって四サイクルのE型エンジンを作りあげることができ、これをドリーム号に積載した。このテストは東海道を箱根にかけて行った。ちょうど昭和二十六年(1951年)七月十五日のことで、ひどいあらしをついて浜松を出発した。テスト・ドライバーは前にも書いた河島喜好君だ。彼は設計から製作までいっさいを自分で手がけた愛車を駆ってのテスト行だった。

私と藤澤専務は私の運転する自動車(外車)で静岡県の三島口から河島君のオートバイの後を追ったが、早くてとても追いつけない。そのころ天下の嶮の箱根を越せるオートバイは少なかったのにドリーム号はぐんぐん私たちの自動車を引き離し、すばらしいスピードで一気に峠の頂までつっ走った。しかもエンジンは全然過熱していない。やっと芦ノ湖の見える山頂で、すでに休んでいた河島君に追いついたわれわれは、そのすばらしさに感激しどしゃ降りの雨の中で涙を流して喜び合った。こと技術に関してはあの有名なものぐさの藤澤専務までが自動車から降り、おりからの台風の中でズブぬれになってしばし動こうともしなかった。

この劇的シーンこそは本田技研発展の一段階を画する事件でもあった。それ以来フレームに銀線のはいったE型積載のドリーム号が非常に売れだしたのである。このときのテスト・ドライバー河島君はその後、三十四歳で本田技研の重役になった。

【エピソード7】

河島の回想―

「実は箱根峠は、だいぶ前から、僕らのテストコースだったんです。登れる自信は十分あったんですが、この日はおやじさんと藤澤さんが後を付いてくるんで、緊張しましたね。藤澤さんの目の前でオーバーヒートなんかしちゃったら、おやじさんの面目は丸つぶれでしょう。ちょうど台風の時で豪雨をものともせず、トップギアのまま一気に駆け登ったとされてますが、雨と、水しぶきがジャージャーかかって運がよかった、空冷が水冷になっちゃってよく冷えたから、と、僕は冗談を言ってるわけです。トップギアで登ったといっても、変速ギアが二段しかないんだから、当たり前。ま、それを考えれば、よく粘る、いいエンジンだったと思います。伝説では、本田と藤澤の乗ったビュイックを引き離し、先に登り切ってしまった河島と、頂上で三人が抱き合って喜んだとなっている。そりゃちょっと気持ち悪い。こっちはカッパを着てズブ濡れだし。握手でしたよ」

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▲1973年本田宗一郎の後を受け、45歳の若さで本田技研工業の代表取締役社長に就任した河島喜好(きよし)。本田宗一郎の一番弟子的な存在だが、技術者としての本田宗一郎に対しては客観的に「会社のために早く辞めて欲しかった」と評している

 

10. 国際レースに勝ち世界一へ

さて、英国のマン島では世界各国の優秀なオートバイ関係者が集まり技術を競うTTレース(ツーリスト・トロフィー・レース)というのがある。四百二十キロを一気に突っ走るたいへんなもので、ここで優勝することはオートバイ関係者の夢であり、誇りともなっている。そこで私もこのレースにいどもうと決意、二十九年(一九五四年)三月、このレースに参加する旨、代理人の人たちに宣言した。

これは二つの意味があった。一つはこのTTレースに参加して優秀な成績を得ないかぎり、世界のオートバイ市場をイタリア、ドイツなどから奪い取ることは不可能であり、先に私が目標を決めたような技術のレベルアップによる輸入防止の念願達成はできないということ。もう一つは、少しセンチメンタルかもしれないが、敗戦直後の日本人の心にほのぼのとした希望を与えてくれた古橋広之進選手の水泳における大活躍を思い出したのである。

汽車の窓ガラスを破って乗り降りしたようなあのすさんだ時代に、彼の世界一の記録はどれほど国民を慰め勇気づけたかもしれない。私には古橋選手のような体力はないが、技術というものを持っている。技術つまり頭脳による勝利がどんなに日本人に大きな希望を与えることか、ことに若い層に与える影響は大なるものがあろう。しかもダイナミックなグランプリ・レースだから、ここで優秀すれば輸出が有利になるのもさることながら、日本人としてのプライドを持たせることができると考えた。

そこで二十九年六月、ようすを見に英国のマン島に行ったのだが、私はこのレースを実際に見てビックリした。ドイツのNSU、イタリアのジェレラーなどという優秀なレーサー(競走者)がものすごい馬力で走っている。同じ気筒容量でも、当時私の作っていたオートバイの三倍もの馬力である。これはえらいことを宣言してしまった。希望が達成されるのはいつの日のことやらと半ば悲観し、半ばあきれてしまった。

レースを初めて見てビックリするやら悲観するやらの私ではあったが、すぐ持ち前の負けずぎらいが頭をもたげてきた。外人がやれるのに日本人にできないはずがない、そのためには一にも二にも研究をしなければと考えて、帰国後さっそく研究部を設けた。

このとき私は英独仏伊など、オートバイ先進国を歴訪して日本になかったレース用のリム、タイヤ、キャブレターなどの部品をごっそり買って持ち帰った。その姿はさながら競輪選手の旅行みたいなもの、はたから見ればおそらく珍妙な格好に映ったに違いない。さあ帰国という段になって、とうとうローマの空港で問題になってしまった。

飛行機は荷物が三十キロをこえると一キロにつきいくらと高い割り増し金をとられると聞いていたし、手持ちのドルは部品購入にほとんど使ってしまった。そこでホテルで苦心して三十キロに荷造りし、リムやタイヤなどは自分で背負い、重い金物などはフランス航空でくれたカバンにつめて空港をパスしようとした。ところが空港では、その手持ちカバンも計算するという。これを合わせると四十キロぐらいになってしまう。電報できょう帰国と打ったあとは一文も持っていない。これは困ったことになったと非常に弱った。

「来るときはバックははからなかったのに、どうして帰りははかるのか」と抗議しても、検査員はトータル・ウエートだからといってがんとして聞かない。「トータル・ウェートなら、あの婦人はなんだ。飛行機の座席にはまらんぐらい太っているじゃないか。あれはおれのトータル・ウェートよりずっと重いのにちゃんとパスしているではないか」と逆ねじを食わせたものの、相手は規則を曲げられないの一点ばり。

ここで飛行機に行ってしまわれてはたいへんなことになる。えらいことになってしまった、なんとかならないかと、考えに考えたすえ、離陸直前の飛行機の前で超過したカバンを開きカラッポにしてしまった。そして中にあるオーバーやら何やら身にまとえるものはなんでもまとい「さあ、これならどうだ」とやった。これには検査員もビックリした。とうとう「それならいい」と言った。「それならいいとはなんだ。結局トータル・ウェートは同じことじゃないか」とおこってみたがはじまらない。七月二十日のローマの熱暑の中で、着ぶくれにふくれ上がった私はフラフラになった。そしてこんどはまた荷物をもとにカバンに詰めもどしだ。ホテルで一晩がかりでぎっしりつめたものがそうたやすくはいるはずがない。暑いし、気がせく。あれほど困ったことはない。

このがんばりもTTレースにどうしても勝つのだという一念があったからこそである。ローマは一日にして成らずというが私は奇しくもそのローマで大汗をかかされたのだった。こうして苦労して持ち帰った部品が、その後大いに役立ったことはいうまでもない。

帰国後設けた研究部は、それまで製作所などに設計課として分散していたものをまとめたもので、三十二年(1957年)六月に技術研究所として統合し、さらに三十五年(1960年)七月、株式会社本田技術研究所として独立した別会社にしたわけだがこれもTTレースが動機で、研究を徹底的に進めようという考えから出発している。その研究の結果、三十三年に二気筒百二十五cc、四気筒二百五十ccのレーサーが完成した。そこで翌三十四年六月に百二十五ccでTTレースに初参加したが、このときは六着に終わった。だが初陣に六着は優秀な成績だった。その後、ついに昨三十六年、TTのグランプリレースに優勝、最優秀賞を獲得したほか、スペイン、フランス、西独各地で行われたグランプリ・レースでも優勝、ここに初志どおり世界一のオートバイを作り上げる野望をとげることができた。

20180508マン島レース1
▲高橋国光・1961年西ドイツGP

20180508マン島レース2
▲昭和36年(1961年)ドイツグランプリ・レース、250ccで優勝した日本人ドライバー

20180508マン島レース3
▲1961年、イギリス・マン島TTレースで1~5位の完全優勝

20180506CVCCengine
▲1972年に本田技研工業が発表した低公害エンジンCVCC。CVCCとは複合渦流調整燃焼方式の略。当時世界一厳しく、パスすることは不可能とされたアメリカの排ガス規制法であるマスキー法(1970年)の規制値を最初にクリアしたエンジンである

20180514ホンダS800
▲ホンダ・S800は、1966年1月から1970年5月の間に生産された伝説の小型スポーツカー。略称は、エスハチ。「世界に類のないものを作ろう」というホンダイズムのシンボルの一つ。ホンダが最初に作った乗用車が世界的にも珍しいスポーツカーだったことは、意外に知られていない。その前のS600は1964年9月、ドイツニュルブルクリンク500km耐久レースに初出場し、ヨーロッパの強豪を破り1000CCクラスで優勝した。ホンダブランドは、ヨーロッパで2輪車だけでなく4輪車でも確立したのである

 

第二部 2 F1への挑戦

レースへの夢

「レースをしなきゃクルマは良くならん。観衆の目前でシノギを削るレースこそ、世界一になる道だ」―。

本田のレースにかける思いは、四輪車進出と並行して高まった。そして六四年一月、ホンダはF1世界選手権レースへの出場を宣言した。

F1とはフォーミュラ・ワンの略。一般には世界選手権をF1、競争車はF1マシンと呼ぶ。フォーミュラとは規則、規格という意味で、四輪が露出した単座席のレース専用カーだ。

最高速のレースの安全性を確保するために、レギュレーション(制限規則)は毎年のように改定されている。現在、F1はエンジンが十二気筒、ターボなどの過給器をつかわない自然吸気式エンジンで排気量三千CC以下などと決められている。

自動車レースは十九世紀末にはすでにおこなわれていたが、F1世界選手権のかたちをとったのは一九五○年からである。国際自動車連盟(FIA)の下部組織である国際スポーツ自動車連盟(FISA)が主催し、現在はヨーロッパ、南米、日本などの十六戦前夜のグランプリレース(GP)を開催、ポイント制によりドライバーとコンストラクター(マシン製造者)の年間総合チャンピオンを争う。

それぞれのGPには公式予選と決勝があり、公式予選で最高のラップタイムを出したドライバーが決勝のポールポジション(スタートにいちばん有利な最前列の内側の位置)を獲得できる。決勝レースは一周三―七キロのコースを周回して、必要に応じて部品やタイヤを交換しながら三百―三百二十キロを走る。最高時速は三百五十キロにも達する。自動車メーカーの先端技術とドライバーの体力・技能の総力が勝敗を決める、優れて現代的なモータースポーツである。

20180531F1
▲熱狂的なファンも多いF1レース

前年、小型スポーツカーと軽トラックを発売したばかりの最後発メーカーがモータースポーツの最高峰に挑もうというのだから、先発メーカーも本田の「蛮勇」に耳を疑った。

F1進出への準備は本田が「私の履歴書」を連載した六二年の春からひそかに始まっていた。

「四輪に進出するからにはF1にも参戦したい」。エンジンの性能は最終的にスピードに表れる。本田にとって乗用車製造とカーレースは、ともに目的であり、手段であった。

同年八月から二百七十馬力のエンジン設計を開始した。この出力は本田自身が決めた目標値であった。

やがて「参戦する以上は勝たなければ意味がない」と、本田のF1にかける意気込みは日ごとに高まっていった。

研究所では設計チームを相手に本田はコンクリートの床の上であぐらをかき、床にチョークで図面を描きながら議論した。

 

4. 本田宗一郎の名言

・「やろうと思えば、人間はたいていのことができると私は思っている」

・「どんなアイディアも、それをやってみるということが大切なんですよ」

・「新しいことをやれば、必ずしくじる。腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる」

・「試したという知恵、これが人を感動させ、しかも自分の本当の身になる、血となり肉となる知恵だと思う」

・「私は開き直ることにした。自分はたぶん、他のどんな人よりも自分に忠実に生きてきたという自信がある」

・「失敗が人間を成長させると、私は考えている。失敗のない人間なんて、本当に気の毒に思う」

・「進歩とは、反省の厳しさに正比例する」

・「成功は、99%の失敗に支えられた1%だ」

・「日本人は、失敗ということを恐れすぎるようである。どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである」

・「いや、いいんだよ、その油まみれの手がいいんだ。俺は油の匂いが大好きなんだよ」
 (本田氏がある社員と握手をするために手を差し出した時、自分の手が油まみれだった社員はためらった)
 
・「人生は冒険、仕事も冒険、そして生きるのも冒険」

・「需要があるからつくるのではない。我々が、需要を創り出すのだ」

・「企業で一番怖いのは社長の無知です。問題は持っている知恵が古くなることです。そうすると、過去がどんない偉かった経営者でも、会社をつぶすことになります」

・「自由競争こそが、産業を育てる」

・「我々の相手は1億の日本人ではなく、世界30億の人間。世界で売れる車なら、必ず日本で売れるはずだ」

・「どうだね。君が手に負えないという思う者だけ、採用してみては」

【参考サイト】
本田宗一郎の名言・格言
心に響く 本田宗一郎 伝説の名言集
本田宗一郎の名言
本田宗一郎の名言、没後25年で振り返る「根性は科学の上に成り立つ」
 
【本田宗一郎の名言・逸話集】ホンダ創業者の魂に響く格言と逸話&伝説集

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5. 本田宗一郎の最高の女房役藤沢武夫について

企業はアートである

このころ藤澤は「企業はアートである」と、企業組織や経営を芸術になぞらえている。自由闊達な精神、感性をとぎすました創造性こそ活力の源泉だと彼は信じた。

「世間には本田と藤澤は仲が悪いのではないか、といった浅薄な噂も流れていたようですね。けれども、トップが一緒に行動する必要がどこにありますか。年中一体であるということは、裏返せば、お互いの意思が完全につながっていないことを示すものではありませんか。タテ系が通っていれば一見ばらばらの行動であってもいいんですか。

私は音楽が好きなものですから、音楽にたとえるんですが、十九世紀までのシンフォニーは、ここが第一バイオリン、ここはチェロといった具合に、それぞれにグループになって、整然としたハーモニーを生み出すんですね。ところがバルトークあたりになると、それぞれがばらばらになってくる。遠く離れたものが一見、勝手放題に動いて、しかも全体として素晴らしい音楽的世界を形成するようになります。

近代産業のトップ経営者の動きは、二十世紀後半の音楽みたいなものだと思うんです。グループでくっついていなければトップでないなどというのはおかしい。トップは、それぞれの分野において独自の行動を果敢になさねばならないので、それぞれの行動の集積が一つの目標に向かう経営の世界をつくればいいんじゃないですか」(発明は自分の手で)

藤澤はゴルフやドライブといったアウトドア型の趣味には興味がなかった。運転免許証は持ってはいたが、靴べら代わりに使っていた。

だが、大の芸術好きだった。ことに音楽は洋楽、邦楽ともに造詣が深く、常盤津は名取り、ワーグナーのファンでバイロイト詣でにドイツまで出かけるほど。美術、工芸、宝飾と一流品に目がなかった。一流作品にふれうことで感性を磨き、経営という優れて創造的な営為に生かそうと努力した。

こうした思索の中から、藤澤は「エキスパート(専門職)制度」「研究所の独立」「集団思考の役員室」など、後のホンダの飛躍につながる独特の経営システムを立ち上げた。

【参考サイト】
本田宗一郎と藤澤武夫、意気投合する
HONDAが倒産危機だった1954年。本田宗一郎と藤沢武夫という、気合の入った男たちの奮闘に涙せよ。
藤沢武夫の名言
経営判断のミスを隠さない男 藤澤武夫
藤沢武夫、本田宗一郎を支えた名参謀

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▲ホンダの発展を支えた名コンビ、本田宗一郎と藤澤武夫

 

本田宗一郎が、静岡の鍛冶屋の息子に生まれ、全く学歴もない中、持ち前の好奇心、行動力、そして自分の足らない所をカバーする聡明さで、世界に通じるブランド企業を作り上げた事実は、教科書に扱われても良いぐらいのお手本だ。マン島でのレース優勝やCVCCエンジンの開発などは、江戸時代に好戦的だった薩長の志士がその破壊力を感じ学ぶ側に転向した欧米の科学技術力分野において、相手に一泡吹かせた痛快な1シーンだと思う。

以前仕事で日本在住で日本製重機を輸出するビジネスをしているシリア人にインタビューする機会があったが、彼はこんな話をした。「日本は不思議な国です。戦争に負けて全部破壊されたのに、数十年で立ち直り、街には高速道路が走っている。私達からしたら、信じられない復興力です」果たしてそのパワーが、今の日本人にあるだろうか。

今は人口減少問題、格差問題などで、本田宗一郎が生きていた当時の日本の活気が、かなり衰退している感は否めない。国土の狭い島国で国力増強の成功例としてはシンガポールが有名だが、その建国の父リー・クアンユーは英国ケンブリッジ大学の法学部を首席で卒業し、「我々は西洋の人間よりも劣っている、ずっと劣ったままだという固定観念を、絶対打ち破るんだ」と帰国時に語っていたそうだ。

本田宗一郎にも、リー・クアンユーにも共通するこの負けず嫌いな精神こそが、努力のモチベーションの根源だと思う。この自由競争を尊ぶ風潮が日本ではかなり衰退し、一から物事を立ち上げた経験のない二世、三世が禅譲された利権をまわすこの国の現状は、相当危ない気がしている。だからこそ、こういった先人の偉業をもっと学び、そのエッセンスを復元する仕組み作りが今求められている。