2014年01月27日

20160302美空ひばり

おニャン子クラブが世間を賑わせている中、秋元康氏は突如ニューヨークへ旅立つ。

そこには、それまでのアルバイト感覚による仕事への決別があった。ヒットが生まれ、スターが誕生する中、アルバイト感覚では済まされないほどの仕事になってきた側面があったらしい。

人種のるつぼニューヨークは、そんな秋元康氏にとって心地良い街だった。様々な髪の毛の色、瞳の色、肌の色。イギリス系、ドイツ系、イタリア系、アイルランド系、スパニッシュ系、アフリカ系など、多種多様な文化が混在し、まさに“来る者拒まず、去る者追わず”だ。

しかも、クリエイター集団「SOLD-OUT」のメンバーもニューヨークへ移ってきた。

「映画監督の堤幸彦も、僕が結婚してニューヨークへ行くというと、じゃあ僕も、と結婚して一緒についてきた。そんなメンバーが何人もいて、結局10人ほどが同じアパートで暮らし始めたんです」

1988年、ニューヨークへ行く前に秋元康氏は、おニャン子クラブのメンバーだった高井麻巳子と結婚した。また当時の生活について、こう語っている。

「何も仕事がなかったですから、ミュージカルを観たり、映画を観たり、美術館に行ったりしてました。僕にとっては、人生で初めての“のりしろ”だったんです。そういう意味では、それまで溜め込んできたものを捨てて、身軽になれました。だからこそ、純粋に“これまで、できなかったことをやろう!”と考えられたんだと思います」

NY ブロードウェイニューヨークの31丁目にあるコンドミニアムに住んで、1年半ぐらい経った頃のことである。秋元康氏は望郷の念に駆られながら、日々部屋の下を流れるイーストリバーを見ていた。そんなある日のこと、日本にいる美空ひばりから、東京ドームで不死鳥コンサートをやるという連絡が来た。秋元康氏は急遽ニューヨークから戻り、東京ドームで美空ひばりと会うことになる。

美空ひばりは、御存知日本を代表する歌手の一人である。横浜市磯子区の出身で、本名加藤和枝。魚屋を営む家の長女として生まれた。戦争に出征する父親の壮行会で、ひばりは父のために『九段の母』を歌った。その歌声の美しさに集まった者が感動し涙する姿を見て、母喜美枝はひばりの歌唱力の才能を見出す。

終戦直後の1945年、私財を投じ自前の「青空楽団」を設立した。近所の公民館や銭湯に舞台を作り、美空ひばりが8歳の時についに初舞台を踏むことになる。1947年には漫談の井口静波らと地方巡業するようになるが、高知県の道路でバスが崖に落下し、瞳孔が開く仮死状態になるほど危険な状態に陥った。幸い居合わせた医師の救命措置によって九死に一生を得たが、この時医師がいなかったら国民的歌手美空ひばりは誕生していなかったかも知れない。

その後田岡一雄川田晴久との出会い、東京ブギウギ、『東京キッド』への出演、『リンゴ追分』の大ヒット、ジャンケン娘時代、小林旭との結婚と離婚、兄弟のトラブル、相次ぐ肉親の死と、波乱万丈の人生を送ることになる。

そんな美空ひばりの代表作を、秋元康氏が手がけることになるのである。

◆美空ひばり 川の流れのように – 不滅の歌姫

◆リンゴ追分