2014年01月26日

20160302おニャン子

アイドルがメジャーになる流れは、それまでは各芸能プロダクションが擁するアイドル歌手が毎年春にデビューし、各種音楽賞の受賞を競うという構図だった。

ところが『夕焼けニャンニャン』という番組が成功し、そこから人気ユニットがどんどん生まれるようになって、そのパワーバランスが変わっていく。タレントがメジャー化する番組の制作者、及び局側が大きな影響力を持っていくのだ。

20140127図版夕やけニャンニャンの場合、フジテレビ・夕やけニャンニャン・おニャン子クラブの3者は連携しており、おニャン子クラブのメンバーがレコードデビューした時、「オリコンで初登場1位の大ヒット」という情報が番組内で宣伝された。おニャン子はまさしくフジテレビ系タレントであり、他局の音楽番組及び音楽祭への出演回数は少ない。逆にフジのライバルであるTBSが放送していた『ザ・ベストテン』との確執は、業界では有名な話であった。テレビの向こう側では、“どこの局系のタレントなのか”という、仁義なき戦いが繰り広げられていたのである。

またおニャン子クラブというものは、“高嶺のスター”から、身近な“隣のお姉さん”的アイドルの走りとも言える。これが、秋元康氏にとってAKB48の原型になっている部分はあるに違いない。

この当時、秋元康氏はまだ20代後半だった。そして、「SOLD-OUT」という実験的な会社を設立する。ここには『金田一少年の事件簿』、『池袋ウェストゲートパーク』、『TRICK』、『20世紀少年』で有名な映画監督、堤幸彦がいた。また『とんねるずのみなさんのおかげです』の構成を担当した遠藤察男も所属していた。

ここで秋元康氏は、一大決心をする。1988年32歳の時、全ての仕事を停止しニューヨークへ行ったのだ。その理由を、こう語っている。

「このままじゃ多分浮かれて、祭り上げられて、担がれて終わるなと思った」

「僕らの世代は、当時“三無主義”と言われていました。つまり、戦争が終わって、学生運動も僕らの前の世代くらいで終息して、ビートルズの来日公演も見られなくて。何かに突き進むという“熱さ”が、なかったんです。冷めた世代だと思うんですよ。自分の意思とは関係なく、たまたま時代の中心に置かれてしまった僕は、ニューヨークに行って、周囲の期待から逃げたかったんですよね」

業界で飛ぶ鳥落とす勢いだったのにも関わらず、自己客観視できるこのクールさ。これこそが、秋元康氏の最大の強さかも知れない。

◆おニャン子クラブ セーラー服を脱がさないで

◆おニャン子クラブ – じゃあね (ファイナルコンサート)