2014年01月19日

20160302秋元高校時代

秋元康氏は奥山侊伸(てるのぶ)氏を通じ、大橋巨泉事務所に属し、放送作家生活をスタートすることになった。

師匠にあたる奥山氏(現社団法人日本放送作家協会理事)は、青島幸男氏のアシスタントをしていた時期があった。そのため、青島氏がスタジオパークからこんにちはに出演した時、「秋元康君は、私の一門の奥山の弟子」と語っている。

奥山コーシン

奥山氏が構成を手がけたテレビ番組には、『シャボン玉ホリデー』、『11PM』、『8時だョ!全員集合』、『クイズダービー』、『ザ・ベストテン』、『世界まるごとHOWマッチ!』、『新春かくし芸大会』、『なるほど!ザ・ワールド』などがある。相当の大御所であることが、これらの番組名からも伺い知れる。

秋元康氏がニッポン放送とつながるキッカケになったのは、高校2年の時に書いたせんだみつおを主人公とした平家物語のパロディだった。受験勉強用のノート20枚に書き上げたパロディが、今日の秋元康を誕生させたのである。

秋元康氏は中央大学附属杉並高校を卒業後、中央大学文学部に入学。放送作家としての生活を、本格的にスタートすることになった。この時の自分について、「当時の僕の武器は若さだったと思いますし、ラジオをやるにしてもリスナーと同じ世代だったから、一番リスナーに近かったわけです。大学になってからテレビ番組をやるにしても、一番若いわけですから、ああだこうだ好き勝手に言えましたね」と語っている。

この当時、秋元康氏は中央大学のキャンパスに行ってもテレビやラジオの原稿を書いてばかりいた。そのため、テレビの原稿の締切と学校のレポートの締切が重なって何度も呼び出された。結果、大学に中退届けを出すことになる。

この当時、秋元康氏は当時のサラリーマンの4倍近い収入を得ていた。しかしサラリーマン家庭に育った秋元康氏の経済観念はしっかりしており、本人はあくまで“あぶく銭”と思っていた。仕事にしようと思う気持ちもなく、面白いと感じて続けているアルバイトに過ぎなかった。

そして放送作家という仕事に対し、物足りなさと将来への不安を感じていた時、ニッポン放送の社員だった亀渕氏から「作詞をやってみたら」と、フジパシフィック音楽出版代表取締役会長の朝妻一郎氏を紹介されるのである。これが、作詞業スタートの転機となる。

作詞家としてフジパシフィック出版と契約した秋元康氏は、1981年Alfeeの楽曲「通り雨」のB面を作詞する機会を得た。そして、「言葉にしたくない天気」で作詞家デビューすることになる。