2015年04月01日

角榮

日本の高度成長時代のシンボルでもある田中角栄。

その人懐こいオーラと、パンチの効いたしわがれ声、そしてユーモア溢れるトークは、ある意味優秀なプレゼンテーターと言える。

1962年、官僚達を目の前にした大蔵大臣就任式でのスピーチが秀逸だ。

「私が、田中角栄だ。小学校高等科卒業である。

諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家揃いだ。かくいう小生は素人だが、棘のある門松は、諸君よりいささか多くくぐってきている。

これから一緒に国家のために仕事をしていくことになるが、お互いが信頼し合うことが大切である。

思い切り、仕事をしてくれ。しかし、責任の全てはワシが背負う。

以上」

このスピーチを聞いて、多くの官僚は鳥肌が立ったという。

こういった人の心をわしづかみにするフレーズは、企画書の表紙のキャッチコピーにピッタリかも知れない(笑)。

また田中角栄は話す場所や話す相手によって、そのスタイルを柔軟に変えた。

国会で演説する時は、周囲の国会議員にリーダーシップを感じさせるよう威厳に満ちたテイストで話した。ところが選挙演説で地元に帰って話す時は、まるで井戸端会議のように一般市民の共感を得るスタイルで話した。

「首脳会談は英語でなんかやりませんよ。わしゃ、日本語でやるさ」

「このネクタイは、ロッキードからもらったもんじゃありません」

「私なんか服を着ておっても、ハチに刺されるもの」

「評判が悪くても、自民党がずっとやっているのはなぜか。まあ酒グセは悪いが、働き者だから亭主を替えないと思うおっかさんの気持ちと同じだね(爆)」

「俺の演説は、年寄りにも、おっかさんにも、青年にも、誰にもわかるようにできている」

「人間は、自分より美男子じゃない、頭の悪いのが可愛いんです」

「政治家は、その人間をそのまま愛せるかどうかが肝心なんだ。東大を出た頭のいい奴は、みんな“あるべき姿”を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑するんだ」

「田中は政治家でなくて、土方だと言われる。何を抜かすかだっ。でもこう言われるとここ(新潟)の人は怒るわね。そうでしょ、みなさん!(拍手)

田中は入広瀬の村長と組んで、ここばかり公共投資すると言われた。何をほざくか!こう言いたいよなぁ。当たり前のことだ!東京には水がない。その水をこっちがくれてやっている。そういう所に公共投資をして何が悪いっ!(大拍手)。

みなさん!この100年は太平洋側の100年だった。しかし、これからの100年は日本海側の100年だ。どんどん生活は良くなる。

私はねぇ、新潟県に20箇所のダムを持ってきている。なぜだか、わかりますか?これからは関東が水不足になるからであります。しかし、こっちには雪があるわねぇ。雪は水なり、水は力なりであります」

これらを見るとまるで漫才だが(笑)、これはあくまで大衆向けの顔であって本質的には“コンピュータ付ブルドー座ザ”と例えられたほど頭の切れる人物だった。

ちなみに田中角栄の人物像を象徴するエピソードとして、派内の若手議員が女性問題でお金に困った時の対応がある。
必要な100万円が揃えられなかったこの議員に対し、角栄は秘書に300万届けさせた。そしてその袋には、以下のメモが入っていた。

一、まず100万円でケリをつけろ
二、次の100万円でお前の不始末で苦労したまわりの人たちに、うまいものでも食わしてやれ
三、次の100万円は万一の場合に持っておけ
四、以上の300万円の全額、返済は無用である

ちなみに第一次田中内閣の顔ぶれは、以下の通り。

○内閣総理大臣―田中角栄
○法務大臣―郡祐一
○外務大臣―大平正芳
→大蔵省で横浜税務署長時代の上司が池田勇人
→興亜院で大陸経営に関わる
→大蔵省主計局主査時代に、日本育英会の設立に尽力
→東京財務局関税部長時代に、国民酒場を創設。これに誇りを持っていた
→池田勇人の誘いを受け、衆議院議員に。以降、連続当選11回。
→「大平クーデター」によって前尾繁三郎に代わって宏池会会長に就任
→台湾との日華平和条約を廃し、日中国交正常化を実現
○大蔵大臣―植木庚子郎
→池田勇人と大蔵省で同期
→大蔵省主計局長、専売局長官を歴任
→田中内閣では意向に沿った大型予算を組み、狂乱物価の一因になった
○文部大臣―稲葉修
○厚生大臣―塩見俊二
○農林大臣―足立篤郎
○通商産業大臣、科学技術庁長官―中曽根康弘
→東大法学部政治学科卒業後、内務省入省
→海軍短期現役制度により海軍主計中尉に任官し、広島の呉鎮守府に配属。終戦後、内務省に復職
→ハーバード大学夏期セミナーに留学し、当時大学院生だったキッシンジャーと人脈を築く
→日本で初めて超党派の政治家と原子力予算を国会に提出し、成立させる
→元警察官僚で「読売新聞中興の祖」正力松太郎と日本の原子力政策推進の両軸になる
→1959年、拓殖大学総長に就任
→1968年、国内のあらゆるプロスポーツの統一コミッショナーに就任
→1970年、第3次佐藤内閣で防衛庁長官に
→19824年、第1次中曽根内閣を発足。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を実施
→1989年、リクルート事件に関与して自民党を離党
○運輸大臣―佐々木秀世
○郵政大臣―三池信
○労働大臣―田村元
→田中角栄と労働界首脳の橋渡し役を担った
→週休二日制や定年の延長に尽力
→その後の福田内閣では運輸大臣を務め、成田空港の開設に貢献
○建設大臣―木村武雄
○自治大臣、北海道開発庁長官―福田一
○内閣官房長官―二階堂進
→実家は鹿児島の名家。受験にことごとく失敗し、渡米。結核にかかり、生死を彷徨う
→「趣味は田中角栄」というほど惚れ込み、支える
○総理府総務長官、沖縄開発庁長官―本名武
○行政管理庁長官―浜野清吾
○防衛庁長官―増原恵吉
○経済企画庁長官―有田喜一
○環境庁長官―小山長規
○国務大臣―三木武夫

【田中角栄プレゼン関連サイト】

・田中角栄の一撃に見た-相手の心をつかむ「超」説得法
ITmediaエンタープライズ

・没後20年、今なお人を惹きつける田中角栄の名言と伝説
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