2013年09月16日

20160223マガジンハウス

リクルート入社2年目ぐらいから、世界の一流の広告、編集記事とはどんなものか、以前にも増して興味が湧いてきた。実務で色々応用できるからだ。その原点がある。

大学生時代に、色んなアルバイトを経験した。その中でもマガジンハウスでの2年半は、貴重な体験だった。東銀座の歌舞伎座裏にあるマガジンハウスは、当時の流行の発信場所だった。1階には、ボーグマリ・クレールなど世界の一流雑誌が置かれ、芸能人やモデルの出入りも多い。ファイロファックスの黒のシステム手帳を持って、颯爽と歩く編集者の姿に憧れた。

自分は書籍部という所に在籍し、週3日以上働いていた。原稿を著者や校正さんに持っていったり、たまにHanakoのイラストを描かせてもらっていた。当時、田中康夫や山口美江に原稿を持って行った記憶がある。

ここが、自分にとってクリエイティブの原風景だった。今から考えると、学生時代のアルバイト現場というのはその人の人生観に大きな影響を与えるのは間違いない。上京直後にした新聞配達の現場とは、真逆の環境だった。マガジンハウス社内の自由な雰囲気、知的でお洒落で独創性を尊ぶ価値観、行き交う編集者の個性、出入りする業界関係者。まさに東京を象徴する場所だった。

平凡パンチは、週刊プレイボーイとともに当時の若者文化を牽引する存在だった。平凡パンチは単なる雑誌に留まらず、ニッポン放送で「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」という番組を放送した。松田聖子は、1980年のパンチガールの一人である。

当時編集部には、立教アメフト部出身のIさんとNHK出身のNさんの二人の部長がいた。また、上品な女性次長もいた。立教アメフト部のIさんは麻布十番の生まれで、経歴はお坊ちゃんそのものだが、外見はゴリラのようで、声はドスがきいてた。

「小野寺~、小野寺いるか!?お前、この間の話どうなってんだよっ」

Iさんは、いつもフロアで叫んでいた。人柄は悪くないのだが、その巨体でドスのきいた声で大声を出されると、当時流行っていた地上げ顔負けの迫力があった。今は出世されて、代表取締役をされている。

アルバイトにとって有難かったのは、社員食堂を使えたことだ。しかも、当時無料だった!創業当時、「社員が、最低限食うことに困らないようにしよう」という考えでそうなったという話を聞いた。ある日のメニューは、ステーキとフルーツヨーグルトだった。この時の感動は、今でも忘れない(笑)。

インターネット全盛のこの時代に、優れたデザインとコンテンツを創りだす力をどう融合させていくのか。マガジンハウスの魅力がどう変わっていくのか、いつも注視している。